幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

いじめ自殺 教育委、両親に謝罪も…答えず(茨城県)"教育委員会は教育ではなく、保身だけ”

2017-08-11 18:28:18 | 社会
http://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news890155176.html
 茨城県取手市で、女子中学生がいじめを訴える日記を残し自殺した問題で、改めて、取手市の教育委員会が両親に直接、これまでの対応を謝罪した。
 取手市教育委員会・当時の教育部長「当時の判断を含めまして、こういう結果を招いてご心労をおかけしていると。本当に申し訳ありませんでした」
 この問題は、茨城県取手市の中学3年生・中島菜保子さんが2015年、いじめを訴える日記を残して自殺したにもかかわらず、取手市の教育委員会が「いじめによる重大事態に該当しない」と判断していたもの。
 11日、取手市教育委員会の当時の教育部長など4人が両親の自宅に改めて謝罪に訪れた。
 しかし、母親の淳子さんが、「その当時と何が意識が変わってそうなったのでしょうか。その当時も(菜保子さんの日記を)見せてましたよね。最初から娘のもの見せてましたよね、いろいろと」などと問いかけたのに対し、教育委員会側が答えることはなかった。
 この問題では、取手市が設置した調査委員会は信用できないとして両親が新たな調査委員会の設置を茨城県に求め、先週、県主体で調査を進めることが決まった。

感想
気持ちが伴わない形だけの謝罪。
教育委員として、恥ずかしくないのでしょうか?
過ちを認めたなら、今同じ過ちをすべきではないのです。
当時教育委員会は過ちを犯し、そして今また同じ過ちを犯したように思いました。

文科省に、両親が訴え、文科省が茨城県に再調査を命じたから、慌てて虐めはあったと態度を変え、そして形として両親に謝罪したということを実績としたいためにだけ行ったのでしょう。
それが実態だったので、正直に言えなかったのでしょう。
最初の判断を誤ったと自覚されていないのでしょう。
本当に教育委員としての誇りはあるのですか?

「天知る、地知る、我知る、人知る」
教育委員になられた人ですから、この言葉はご存知だったと思いますが、”知行合一”になってなくて、行動が教育委員のレベルでなかったのでしょう。
そんな人を選んだ人にも責任があるのだと思います。






「人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答」茂木健一郎 南直哉共著 ”行雲流水、星の友情、無記、疑団”

2017-08-11 04:14:04 | 本の紹介
・「行雲流水」
 南氏から茂木さんは「こううんりゅうすい」ですねと言われたそうです。 注1)
・「星の友情」ニーチェ 注2)
・「無記」 注3)
・自由というのは「航海する人」、「目的地・航路・現在地」
 目的地を自分で決め、そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。
・人間が考え方を変えるには、生き方を変えるしかない(南)
・「疑団」 注4)
・人が努力し未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくために絶対必要な考え方だからというわけです。だらか、因果を信じろと。

感想
本を読む楽しさの一つが出逢いだと思います。
いろいろな知識に出逢う、言葉に出逢う。

4つの知らない言葉を知りました。
それを調べることでまた新たな出逢いがあります。
学道の三則 「大疑団・大憤志・大信根」があることも知りました。
(疑団の引用サイトに紹介されています)

無記、人は考えてもどうしようもないことを考えているようです。
疑団、疑問に思うことが学びのモチベーションにもなります。

生きている楽しみは、出逢いのように思います。
人との出逢い、本との出逢い、自然との出逢い・・・。
その出逢いを生かすかどうかは自分の判断になりますね。

注1)
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/04.htm
行雲流水 (こううんりゅうすい)<普勧坐禅儀>

 雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、水はまた絶えることなくさらさらとして流れて、また一処にとどまることがない。
この無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。今も禅の修行僧を「雲水(うんすい) 」と云うのも雲が悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したことから名づけられたことばである。
 「行雲流水」は自然現象である。空を行く雲、川を流れる水は一時も同じ状態ではない。雲の表情は一瞬一瞬ごとに変わり、湧きては消え、消えてはまた生ずであり、また流れる水も常に変化して様々な表情があるように、この行雲流水の語は世の無常を表わした語でもある。
それはそのままわれわれの人生にも通じることである。
雲にはやさしい風ばかりではない。吹きちぎり吹き飛ばす風もある。水の流れにも瀬があり曲がりくねる淵があり一様な流ればかりではない。長い人生もまた然りである。
人生、順風満帆ばかりなんてありえない。どんなに障害があり、喜怒哀楽様々な出来事の連続の中にあっても、常に心はその一処にとどまらず、執着せず、雲の如く無心にして淡々と、さわやかに生きるところにこの「行雲流水」の語が生きる。

注2)http://upsidedownassoc-blog.tumblr.com/post/5698434125/星の友情我々は友人であっただが疎遠になってしまったそうなるのが当然だったのだ我々はそれぞ
星の友情――我々は友人であった。だが疎遠になってしまった。そうなるのが当然だったのだ。――我々はそれぞれの目的地と航路を持つ二艘の船だ。ひょっとすると我々は再び出会い、あの頃のように一緒に祝祭を上げるかもしれない。――あの頃は、勇猛果敢な二艘の船は、一つの港に一つの日光を浴びて横たわり、同じ一つの目的地を目指しすでに目的地に着いたかのように見えていたかもしれない。しかし、やがて我々の使命の全能の力が再び我々を別れさせ、別の海洋、別の海域へと駆り立てたのだ。
我々はもう二度と出会うことがないかもしれない――出会うことがあっても、もうお互いを見分けることはできないだろう。さまざまな海と太陽が我々を別なものに変えてしまっているだろうから。われわれが疎遠になるしかなかったこと、それは我々を支配する法則なのである。まさにそのことによって、我々はまた互いにいっそう尊敬し合えるものとなるべきなのだ!まさにそのことによって、我々の過去の友情の記憶がいっそう聖なるものとなるべきなのだ!おそらく、我々のまったく異なる道筋や目的地が、その小さな一部として包まれるような、目に見えない巨大な曲線と星辰軌道が存在するはずだ――こういう思想にまで我々は自分を高めよう!
だが、こうした崇高な可能性の意味での友人以上のものとなるためには、我々の人生はあまりに短く、我々の視力はあまりに短い。―――だからわれわれは、地上では互いの敵であらざるを得ないにしても、我々の星の友情を信じよう。” ニーチェ 『悦ばしき知識』

注3)
http://oujyouin.com/hotokenomichi18.html
 無記《むき》とは、判断をしないこと、答えを出さないことであります。
 時にお釈迦様は、弟子たちから色々と出される質問の中で、特に形而上学的な問題については判断を示さず、答えを出さずに沈黙を守ることで、仏教の実践から外れてしまう無用な論争の弊害を避けられることがありました。
 
特に十無記として、
 一、世界は常住であるのか? 
 二、世界は非常住であるのか?
 三、世界は有限であるのか?
 四、世界は無限であるのか?
 五、霊魂と肉体は同一のものか?
 六、霊魂と肉体は別々のものか?
 七、如来は死後存在するのか?
 八、如来は死後存在しないのか?
 九、如来は死後存在しつつ非存在であるのか?
 十、如来は死後存在するものでもなく非存在でもないのか?

 があります。これらの問いには、「そう」、「そうでない」の二元論でも、また「そうでもあって、そうでもない」、「そうでもなく、そうでもないものでもない」を加えた四元論でも答えることが不可能であり、これらの問いは、現実的に実証できない空想的独断のものでしかなく、仏道の実践において何の役にも立たない問いであるとして、お釈迦様は回答を退けられたのであります。

 このことは、よく「毒矢の例え」をもって取り上げられます。
 ある人が毒矢に射られたとして、すぐに矢を引き抜いて治療してもらわなければならないのですが、駆けつけた医者の治療の前に、毒矢を射られた人が、一体この毒矢を射た者は誰なのか、どんな身分の者で、どんな名前の者なのか、身長はいくつで、どんな顔の人で、どこから来た者なのか、また、どんな材質の弓で射たのか、どんな材質の矢じりがついていたのか・・それらが分かるまでは、矢を引き抜いて治療してはいけないと、余計なことばかり聞いてしまっていれば、結局その間に、その人は死んでしまいます。治療してもらうという目的以外の余計なものに囚われてしまっては、目的から大きく外れてしまうということであります。

 つまり、仏教においては、目の前にある現実の苦しみと向き合い、その原因を解明し、そして、その原因を取り除いていき、苦しみを無くすことに努めること以外における無用な議論は、意味のないことだと諭されたのであると解します。

 ただ、お釈迦様は、弟子たちから輪廻のことや地獄のことなどについて、どうしても教えて下さいと質問をされると、全知全能あまねく悟った自らの過去世におけること、全てにおける輪廻のことから、お答えになられたこともありましたが、むしろ更に現実の苦しみに集中させ、苦しみを無くすという目的のためだけにあえて答えられたようであります。

 現実の苦しみ、苦しみの原因、苦しみを無くす方法についてしっかりと学び、実践して、苦しみを確実に無くすことが、何よりも重要であると考えます。

 その点で、仏教はある意味で世間の他宗教の定義とはやや異なり、ただ苦しみを無くすための実践方法論に過ぎないとも言えるのではないかと思います。

 また、どうしてもいずれ確実に訪れる自分の死、死後のことがあまりに気になって仕方がないのであれば、もちろん無我において、自分などという「我」はないのですから、死後の「我」もありえません。そんなことも分からないままに死を迎えようとなれば、無明の闇の中、迷い苦しむことになるわけでありますけど、とにかく、自分の死後のことではなくて、自分の死後においても、この無常なる世界に残る全てのものたち、自分の死後に生まれてくるものたちの苦しみを少しでも無くしてあげるために、今、現実にできることを考えて、日々、慈・悲・喜・捨の心と実践で過ごしていければよいのではないだろうかと思います。

 とにかく、まだ来てもいない未来のことに対して、いくら心配して妄想を膨らませて煩悩を抱えて苦しく過ごしても、仕方のないことなのであります。とにかく仏教では極限まで現実を直視していかなければならないのであります。

注4)
https://kotobank.jp/word/%E7%96%91%E5%9B%A3-474529
心の中にわだかまっている疑いの気持ち。

http://www.ningenzen.org/zen37/04.PDF
(1)大疑団

まずは「大疑団」でありますが、これは読んで字のごとく大きな疑いをもち、それを徹底的に疑い全身これ疑いのかたまりになる事であります。
皆さんご存じのように禅では、 「ただ信ぜよ、信ずる者は救われん」などとは説きません。「大疑のもとに大悟あり」。これが禅の金看板であります。
臨済和尚は「疑わざる、これ病なり」とまで喝破しております。
自ら納得もいかないのにいい加減なところで妥協したりせず、自らをごまかすことなく、納得がいくまで徹底疑えと説くのが禅であります。といってこの疑いは私情、わたくしの情に根ざしたちっぽけな疑いではありません。
人間ならば誰しもが当然抱かずにはおれない疑い、人生の根本問題に対しての疑いであります。
○後にも先にも一度限りの人生、この人生をどう生きたら悔いなく生きられるのであろうか。
○真実の自己とはどいつなのか?
○人間は必ず死ぬが、死んでどこに行くのであろうか?
○霊魂といわれるものは本当にあるのだろうか?
○人間はすべて平等だというけれども本当だろうか?
現実には大金持ちもいるし、今晩食べるものさえママナラナイ貧しい人もいる。差別が歴然としているじゃないか。いったい何を基準として平等なのであろうか?
このような人生の根本に関する問題と真っ正面から対決し、解決を求めて疑いに疑いぬくことを大疑団というのであります。(私たちが参じております公案は、この大疑団のエッセンスと云ってよろしいのではないでしょうか。)
さてこうした大疑団を抱いたとして、この大疑団そう簡単に解決するものでもありません。血のにじむような苦心と努力によって、ようやく解決できるものでありましょう。
一旦はこれらの疑団を抱きながらも、それを中途で放棄したりいい加減に誤魔化してしまう人が多いのであります。ですが、それではたった一度きりの人生に対して不親切と云わねばなりません。せっかくの人生が酔生夢死で終わってしまいます。
そこでどうしても若き日の二祖慧可、神光が雪中に一夜を立ちあかし、はては臂を断ったように、大疑を解決し悟りを開くまでは断じて退転しない、必ずやり通すという決意、すなわち大憤志が必要となってくるのであります。