・2017年10月10日福島地方裁判所で、「勝訴」
「国の津波対策義務に関する規制権限の不行使は、許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠いていたと認められるから、国家賠償法一条一項に基づいて損害賠償責任を負う」
「被告東電にも、長期評価から予見される津波対策を怠った過失があると認められる」
・2002年7月、政府の地震調査研究推進本部は、大きな津波をもたらすM8.2前後の地震が、福島県沖で発生する可能性を公表した。2008年3月、東電の子会社「東電設計」は、この地震が福島第一原発に15.7mの津波をもたらすという計算結果を、東電に報告した。東電の津波想定の担当者は、この計算をもとに海抜20mの防波堤を築くなど、具体的な対策計画をつくり、武藤氏に㋅10日に報告した。ところが武藤氏はこの計画を採用せず先送りすることを、7月31日に決める。武黒氏も遅くとも8月上旬にはこの結果を聞いていた。また、勝俣氏が出席することから東電社員の間で「御前会議」と呼ばれていた会議でも福島第一原発の津波対応について報告されていた。特に2009年2月の会議では、津波想定担当部長だった故・吉田昌郎氏(事故当時の福島第一原発所長)が「もっと大きな14m程度の津波が来る可能性があるという人もいて」などと発言していたので、勝俣氏も、大津波の可能性について知ることができた。このように、三人の被告人は、福島第一原発の敷地高さを超える津波が襲来し、これによって全電源を失って炉心損傷など深刻な事故が発生することを予見できた。被告人らが、費用と労力を惜しまず、同人らに課せられた義務と責任を適切に果たしていれば、本件のような深刻な事故は起きなかった。
・福島原発告訴団が結成集会を開いたのは、事故から一年後の2012年3月16日のことだ、団長の武藤類子さんは、こうあいさつした。
「このまま黙らせてなるものか。この途方もない理不尽さに耐えかねていた。告訴は、人を犯罪者として訴えること。それはエネルギーのいることで、自分自身に跳ね返ってくることも多いので、内心ドキドキしている。しかし、私たちは告訴というものをやっていかなければならない。そうしなければ、若い人、子どもたちに本当に新しい未来を残せない。そうでなくても、たくさんの放射性ごみと、汚染された大地を彼らに背負わせるわけだから、この事故の責任が誰にあるのか、きちんと明確にして、その人々に責任をとってもらわないといけない」
・2012年6月12日東電幹部や国の関係者ら33人について業務上過失致死傷害などの容疑で告訴・告発状を福島地検に提出した。この告訴・告発は東京地検に担当が移され、2013年9月9日に東京地検は全員の不起訴処分を決定した。福島原発告訴団は、この処分を不服として、すぐに検察審査会に審査を申し立てる。2014年7月31日に東京第五審査会は、勝俣氏ら三人に「起訴相当」、一人に「不起訴不当」の議決を出し、東京地検は再捜査を始めた。2015年1月22日、東京地検は勝俣氏ら四人を再度、不起訴にする。
告訴団は心配していた。福島地検に告訴・告発したのに、検察庁が事件の担当を東京地検に移したため、検察審査会も東京に住む人たちの中からくじ引きで選ばれる。事故への関心は地元福島とは大きく異なる。果たして八人以上の人が、それも二度も、「起訴すべき」と判断してくれるだろうか。
告訴団は「あきれ果ててもあきらめない」を掛け声にして、福島県内で集会を開き、東京地裁前の路上でも毎月のように集会を重ねた。
そして2015年7月31日、東京第五検察審査会は二度目の「起訴すべきだ」という議決を発表し、勝俣氏ら三人の強制起訴が決まった。
・2007年11月から2008年夏にかけて、東電社内で津波対策の具体的な検討が繰り返され、そして対策を先延ばしにする決断が下された事実を、検察官側が証明しようとしていることがわかる。
事前準備として、この時期の決断に大きく関わる三つの出来事を見ていく。
一つは、2002年7月の地震本部長期評価の公表だ。ここで、1960年代の設計時には想定していなかった巨大津波の可能性が、政府から公式発表された。
二つ目は、敷地を超える津波が襲来すると、原発が全電源喪失するという危険性を、2006年5月に東電が調べて政府に報告していることだ。
三つ目は、福島第一のような古い原発について、耐震安全性を再検討する手続き(バックチェック)が2006年9月から開始されたことである。
・2005年12月14日にJNESから3人、保安院から原子力発電安全審査課審査班長、東電から8人が集まり、保安院の会議室で打ち合わせを開いた。この打合せの翌日、東電の土木グループで津波評価を担当していた酒井俊郎氏が関係者に送付したメールが、初公判で証拠として提出され、明らかになった。
「想定が津波に対する影響評価に関する保安院要請」と題するメール
保安院幹部、原子力基盤機構幹部の懸念からして、早急に対応して欲しい。少なくとも設計を上回る津波が発生した場合、プラントの状態がどうなるかなどのケーススタディは早期に実施できるはず。二プラント程度選定し、具体的な検討を進めたい。福島サイトを考えている。
2006年5月11日の第三回勉強会で、東電は福島第一5号機(敷地高13m)が高さ14mの津波に襲われた場合のシミュレーション結果を発表した。この時点で敷地より高い津波が全電源喪失をもたらす、という危険性がわかっていたことになる。この会合の状況は、電気事業連合会でも報告され、そこには武黒氏も出席していた。
・東電は、ずるずるとバックチェックを引き延ばし、事故当時は2016年まで勝手に先延ばししていた。それが事故の大きな要因となる。福島第一のような古い原発を最新の科学的知識に照らして安全性を再検討するバックチェック作業は、2009年6月に終えると予定された。保安院は2006年時点で「バックチェック期間三年は長い。保安院として対外的にこれが適切として説明することは難しい」と考えていた。
・2008年2月4日に酒井氏が東電社員に送ったメール内容「大きな津波が来ることになって、NG、今の備えではじゅうぶんでないとわかったら、原発を一度止めて津波対策工事に取り掛からなければならなくなる。そのときに原発を動かし続けながら津波対策をやることに理屈を考えなきゃいけない、みたいな議論をやっている」と海渡弁護士は驚いたという。
・東電の「土木学会待ち」は時間稼ぎの口実にすぎなかった。女川原発で、東北電力や保安院は、土木学会の検討を待つことなく津波バックチェックを進めていたことから、それは明らかだ。ところがプルサーマルを進めたい国は東電だけに、「土木学会待ち」という言い訳を許してしまった。刑事裁判の冒頭陳述で検察官が主張したように、東電は新しい知見に対応できないならば原発を止めなければならなかったのではないだろうか。それは原安委の水間課長が2006年に全電力会社に念押ししていたことでもあった。
・東北電力は、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)などについて、文献調査や敷地付近の聞き取り調査をし、女川原発の建設予定地の津波は最高3mだったと見ていた。既往最大津波をクリアすれば良い当時の設計の考え方であれば、敷地高さは福島第一原発と同程度でもかまわなかったはずだ。しかし、当時は発生場所や規模がよくわかっていなかった貞観地震(869年)などを考慮すると、もっと津波が高くなる可能性があるとして、敷地高さを14.8mにした。既往最大の五倍程度の安全余裕をとったのだ。一方、福島第一敷地高さは10m。既往最大の三倍程度だった。この初期の余裕の差が、その後だんだん姿を現してい来る「不確実な津波」に備えるかどうか、その判断に大きく影響を与えたように思われる。
・東電は、事故に対処するため三種類の事故時運転操作手順書を備えていた。
事故ベースのもの(AOP);配管破断などの異常事態が発生したときの手順
微候ベースのもの(EOP);事故の原因を問わず、プラントの状態に応じて対応する手順を示す。異常事態の正確な原因が分からない時でも、原子炉の水位や圧力などの情報だけで対応するものだ。このEOPは、1979年に起きた米スリーマイル島原発事故の反省を受けて開発された。
シビアアクシデントに対応したもの(SOP);さらに事態が進んで炉心損傷が始まってから使う。
東電は、炉心損傷が始まる前から、炉心損傷後に参照すべきSOPに則った操作を行っていた。SOPの前に参照しなければならないEOPを軽視してしまい、アドリブで事故対応したことで事態を深刻化させたのだ(社会技術安全研究所を主宰する田辺文也氏の分析)。
「微候ベース手順書をないがしろにしたがゆえに戦略を欠いた場当たり的な対応に陥って、事故を最小限に食い止めるチャンスを逃したのである。高圧で原子炉に注水する系統が機能していいる間に時期を得て低圧で原子炉に注水できる系統を起動し、その後原子炉を減圧にすることで原子炉注水を継続することができたのだが、それに失敗し、事故の深刻化を招いたのである」
国会事故調の委員を務めた化学評論家の田中三彦氏は、「手順書違反問題は、東電の事故対応能力の欠如をいう体質的な問題を示している。良いマニュアルがあっても、それを実現んするだけのチームワーク、知識がなかった」とも述べている。吉田所長個人の問題ではなく、適切に進言できる人が、現場にも本店にもいなかったからだ。
・これまでの検査で、甲状腺がん、またはその疑いがあると診断された子どもは191人、手術後に確定したのは152人になる(2017年3月31日時点)。
福島県「県民健康調査」検討委員会が2016年3月に出した「県民健康調査における中間まとめ」より。
「わが国の地域がん登録で把握あれている甲状腺がんの罹患統計などから推定される有病数に比べて数十倍のオーダーで多い甲状腺がんが発見されている。中略 総合的に判断して、放射線の影響とは考えにくいと評価する。但し、・・・現段階ではまだ完全に否定できず、・・・」
・今回、規制委が黒塗りにして出した文書は、東電福島原発事故における国の責任を歌付ける事実がいくつも含まれていて、国にとても都合のある鋳物だったようだ。文書が、指針改訂後に予想される訴訟に対して、「(国や電力会社は)少なくともバックチェック等の特段の立証活動なしに敗訴を到底免れない」とまで認めていた。それをサボって事故を引き起こしたのだから、裁判で負けて当然だったのだ。バックチェックを速やかに進めようとした原安委の方針に「『速やかに』は削除した方が良い」と注文をつけた保安院の文書(2004年7月14日)などが見つかった。
・東電福島原発事故に関連した裁判で、原告たちが何を訴え、法廷で何が解き明かされてきたか、その記録は後世に残すべき貴重なものだ。
感想;
この本を読むと、福島第一原発の事故は防げたのではないかと思いました。
責任者が専門家のリスクを真摯に受け止め対策を行っていればとつくづく思いました。
その時、責任者にどのような人がいたかで結果が大きく異なるようです。
それにしても、国は資料の非開示、修正、起訴されないようになど、国/国民のためというよりも自分たちのために動いているのではと思ってしまうような実際の行動でした。
それは今も変わらず、森友学園問題の文書修正は累々と続いてきた文書修正の一つだったのではないかと思ってしまいました。
なので、つい文書の修正を責任者が指示されたんでしょう。
「国の津波対策義務に関する規制権限の不行使は、許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠いていたと認められるから、国家賠償法一条一項に基づいて損害賠償責任を負う」
「被告東電にも、長期評価から予見される津波対策を怠った過失があると認められる」
・2002年7月、政府の地震調査研究推進本部は、大きな津波をもたらすM8.2前後の地震が、福島県沖で発生する可能性を公表した。2008年3月、東電の子会社「東電設計」は、この地震が福島第一原発に15.7mの津波をもたらすという計算結果を、東電に報告した。東電の津波想定の担当者は、この計算をもとに海抜20mの防波堤を築くなど、具体的な対策計画をつくり、武藤氏に㋅10日に報告した。ところが武藤氏はこの計画を採用せず先送りすることを、7月31日に決める。武黒氏も遅くとも8月上旬にはこの結果を聞いていた。また、勝俣氏が出席することから東電社員の間で「御前会議」と呼ばれていた会議でも福島第一原発の津波対応について報告されていた。特に2009年2月の会議では、津波想定担当部長だった故・吉田昌郎氏(事故当時の福島第一原発所長)が「もっと大きな14m程度の津波が来る可能性があるという人もいて」などと発言していたので、勝俣氏も、大津波の可能性について知ることができた。このように、三人の被告人は、福島第一原発の敷地高さを超える津波が襲来し、これによって全電源を失って炉心損傷など深刻な事故が発生することを予見できた。被告人らが、費用と労力を惜しまず、同人らに課せられた義務と責任を適切に果たしていれば、本件のような深刻な事故は起きなかった。
・福島原発告訴団が結成集会を開いたのは、事故から一年後の2012年3月16日のことだ、団長の武藤類子さんは、こうあいさつした。
「このまま黙らせてなるものか。この途方もない理不尽さに耐えかねていた。告訴は、人を犯罪者として訴えること。それはエネルギーのいることで、自分自身に跳ね返ってくることも多いので、内心ドキドキしている。しかし、私たちは告訴というものをやっていかなければならない。そうしなければ、若い人、子どもたちに本当に新しい未来を残せない。そうでなくても、たくさんの放射性ごみと、汚染された大地を彼らに背負わせるわけだから、この事故の責任が誰にあるのか、きちんと明確にして、その人々に責任をとってもらわないといけない」
・2012年6月12日東電幹部や国の関係者ら33人について業務上過失致死傷害などの容疑で告訴・告発状を福島地検に提出した。この告訴・告発は東京地検に担当が移され、2013年9月9日に東京地検は全員の不起訴処分を決定した。福島原発告訴団は、この処分を不服として、すぐに検察審査会に審査を申し立てる。2014年7月31日に東京第五審査会は、勝俣氏ら三人に「起訴相当」、一人に「不起訴不当」の議決を出し、東京地検は再捜査を始めた。2015年1月22日、東京地検は勝俣氏ら四人を再度、不起訴にする。
告訴団は心配していた。福島地検に告訴・告発したのに、検察庁が事件の担当を東京地検に移したため、検察審査会も東京に住む人たちの中からくじ引きで選ばれる。事故への関心は地元福島とは大きく異なる。果たして八人以上の人が、それも二度も、「起訴すべき」と判断してくれるだろうか。
告訴団は「あきれ果ててもあきらめない」を掛け声にして、福島県内で集会を開き、東京地裁前の路上でも毎月のように集会を重ねた。
そして2015年7月31日、東京第五検察審査会は二度目の「起訴すべきだ」という議決を発表し、勝俣氏ら三人の強制起訴が決まった。
・2007年11月から2008年夏にかけて、東電社内で津波対策の具体的な検討が繰り返され、そして対策を先延ばしにする決断が下された事実を、検察官側が証明しようとしていることがわかる。
事前準備として、この時期の決断に大きく関わる三つの出来事を見ていく。
一つは、2002年7月の地震本部長期評価の公表だ。ここで、1960年代の設計時には想定していなかった巨大津波の可能性が、政府から公式発表された。
二つ目は、敷地を超える津波が襲来すると、原発が全電源喪失するという危険性を、2006年5月に東電が調べて政府に報告していることだ。
三つ目は、福島第一のような古い原発について、耐震安全性を再検討する手続き(バックチェック)が2006年9月から開始されたことである。
・2005年12月14日にJNESから3人、保安院から原子力発電安全審査課審査班長、東電から8人が集まり、保安院の会議室で打ち合わせを開いた。この打合せの翌日、東電の土木グループで津波評価を担当していた酒井俊郎氏が関係者に送付したメールが、初公判で証拠として提出され、明らかになった。
「想定が津波に対する影響評価に関する保安院要請」と題するメール
保安院幹部、原子力基盤機構幹部の懸念からして、早急に対応して欲しい。少なくとも設計を上回る津波が発生した場合、プラントの状態がどうなるかなどのケーススタディは早期に実施できるはず。二プラント程度選定し、具体的な検討を進めたい。福島サイトを考えている。
2006年5月11日の第三回勉強会で、東電は福島第一5号機(敷地高13m)が高さ14mの津波に襲われた場合のシミュレーション結果を発表した。この時点で敷地より高い津波が全電源喪失をもたらす、という危険性がわかっていたことになる。この会合の状況は、電気事業連合会でも報告され、そこには武黒氏も出席していた。
・東電は、ずるずるとバックチェックを引き延ばし、事故当時は2016年まで勝手に先延ばししていた。それが事故の大きな要因となる。福島第一のような古い原発を最新の科学的知識に照らして安全性を再検討するバックチェック作業は、2009年6月に終えると予定された。保安院は2006年時点で「バックチェック期間三年は長い。保安院として対外的にこれが適切として説明することは難しい」と考えていた。
・2008年2月4日に酒井氏が東電社員に送ったメール内容「大きな津波が来ることになって、NG、今の備えではじゅうぶんでないとわかったら、原発を一度止めて津波対策工事に取り掛からなければならなくなる。そのときに原発を動かし続けながら津波対策をやることに理屈を考えなきゃいけない、みたいな議論をやっている」と海渡弁護士は驚いたという。
・東電の「土木学会待ち」は時間稼ぎの口実にすぎなかった。女川原発で、東北電力や保安院は、土木学会の検討を待つことなく津波バックチェックを進めていたことから、それは明らかだ。ところがプルサーマルを進めたい国は東電だけに、「土木学会待ち」という言い訳を許してしまった。刑事裁判の冒頭陳述で検察官が主張したように、東電は新しい知見に対応できないならば原発を止めなければならなかったのではないだろうか。それは原安委の水間課長が2006年に全電力会社に念押ししていたことでもあった。
・東北電力は、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)などについて、文献調査や敷地付近の聞き取り調査をし、女川原発の建設予定地の津波は最高3mだったと見ていた。既往最大津波をクリアすれば良い当時の設計の考え方であれば、敷地高さは福島第一原発と同程度でもかまわなかったはずだ。しかし、当時は発生場所や規模がよくわかっていなかった貞観地震(869年)などを考慮すると、もっと津波が高くなる可能性があるとして、敷地高さを14.8mにした。既往最大の五倍程度の安全余裕をとったのだ。一方、福島第一敷地高さは10m。既往最大の三倍程度だった。この初期の余裕の差が、その後だんだん姿を現してい来る「不確実な津波」に備えるかどうか、その判断に大きく影響を与えたように思われる。
・東電は、事故に対処するため三種類の事故時運転操作手順書を備えていた。
事故ベースのもの(AOP);配管破断などの異常事態が発生したときの手順
微候ベースのもの(EOP);事故の原因を問わず、プラントの状態に応じて対応する手順を示す。異常事態の正確な原因が分からない時でも、原子炉の水位や圧力などの情報だけで対応するものだ。このEOPは、1979年に起きた米スリーマイル島原発事故の反省を受けて開発された。
シビアアクシデントに対応したもの(SOP);さらに事態が進んで炉心損傷が始まってから使う。
東電は、炉心損傷が始まる前から、炉心損傷後に参照すべきSOPに則った操作を行っていた。SOPの前に参照しなければならないEOPを軽視してしまい、アドリブで事故対応したことで事態を深刻化させたのだ(社会技術安全研究所を主宰する田辺文也氏の分析)。
「微候ベース手順書をないがしろにしたがゆえに戦略を欠いた場当たり的な対応に陥って、事故を最小限に食い止めるチャンスを逃したのである。高圧で原子炉に注水する系統が機能していいる間に時期を得て低圧で原子炉に注水できる系統を起動し、その後原子炉を減圧にすることで原子炉注水を継続することができたのだが、それに失敗し、事故の深刻化を招いたのである」
国会事故調の委員を務めた化学評論家の田中三彦氏は、「手順書違反問題は、東電の事故対応能力の欠如をいう体質的な問題を示している。良いマニュアルがあっても、それを実現んするだけのチームワーク、知識がなかった」とも述べている。吉田所長個人の問題ではなく、適切に進言できる人が、現場にも本店にもいなかったからだ。
・これまでの検査で、甲状腺がん、またはその疑いがあると診断された子どもは191人、手術後に確定したのは152人になる(2017年3月31日時点)。
福島県「県民健康調査」検討委員会が2016年3月に出した「県民健康調査における中間まとめ」より。
「わが国の地域がん登録で把握あれている甲状腺がんの罹患統計などから推定される有病数に比べて数十倍のオーダーで多い甲状腺がんが発見されている。中略 総合的に判断して、放射線の影響とは考えにくいと評価する。但し、・・・現段階ではまだ完全に否定できず、・・・」
・今回、規制委が黒塗りにして出した文書は、東電福島原発事故における国の責任を歌付ける事実がいくつも含まれていて、国にとても都合のある鋳物だったようだ。文書が、指針改訂後に予想される訴訟に対して、「(国や電力会社は)少なくともバックチェック等の特段の立証活動なしに敗訴を到底免れない」とまで認めていた。それをサボって事故を引き起こしたのだから、裁判で負けて当然だったのだ。バックチェックを速やかに進めようとした原安委の方針に「『速やかに』は削除した方が良い」と注文をつけた保安院の文書(2004年7月14日)などが見つかった。
・東電福島原発事故に関連した裁判で、原告たちが何を訴え、法廷で何が解き明かされてきたか、その記録は後世に残すべき貴重なものだ。
感想;
この本を読むと、福島第一原発の事故は防げたのではないかと思いました。
責任者が専門家のリスクを真摯に受け止め対策を行っていればとつくづく思いました。
その時、責任者にどのような人がいたかで結果が大きく異なるようです。
それにしても、国は資料の非開示、修正、起訴されないようになど、国/国民のためというよりも自分たちのために動いているのではと思ってしまうような実際の行動でした。
それは今も変わらず、森友学園問題の文書修正は累々と続いてきた文書修正の一つだったのではないかと思ってしまいました。
なので、つい文書の修正を責任者が指示されたんでしょう。