「生きる意味なんてない」ナチスの強制収容所で、多くの人々がそう感じ、命を絶とうとしているとき、同じ境遇にあった1人の精神科医はまったく異なる発見をします。家族を失い、死の恐怖と隣り合わせの極限状況の中でも、人生には必ず意味があると。
その精神科医こそ、ロゴセラピーの創始者ヴィクトール・フランクルです。彼が見出した「人生の意味を探求する心理療法」は、現代社会が抱える本質的な問題への処方箋となりうるものです。経済的な成功や社会的地位を得てもなお、虚しさを感じる人々、自分の存在価値に悩む若者たち。
そんな現代人の心の渇きに、ロゴセラピーはどのような答えを示してくれるのでしょうか。このインタビューでは、琉球大学の草野智洋先生に、ロゴセラピーの本質と実践、そして現代社会における意義についてのお話を伺います。
草野 智洋 / Tomohiro Kusano
琉球大学 人文社会学部 准教授
琉球大学 人文社会学部 准教授
【プロフィール】
東京大学文学部 思想文化学科 卒業
大阪大学大学院 人間科学研究科 臨床心理学分野 修了
博士(人間科学)
臨床心理士、公認心理師、日本ロゴセラピスト協会認定 A級ロゴセラピスト
東京大学文学部 思想文化学科 卒業
大阪大学大学院 人間科学研究科 臨床心理学分野 修了
博士(人間科学)
臨床心理士、公認心理師、日本ロゴセラピスト協会認定 A級ロゴセラピスト
ヴィクトール・フランクルが遺した希望の心理療法「ロゴセラピー」
クリックアンドペイ(以下KL):はじめにロゴセラピーについて教えていただけないでしょうか。
草野氏:ロゴセラピーはヴィクトール・フランクルという著名な精神科医・心理学者が創始した心理療法です。フランクルはユダヤ人でナチスの強制収容所に収容された経験があります。妹を除く家族全員を失い、自身も死の危機に直面しましたが、生き延びてその体験記を著しました。その体験記『夜と霧』は、多くの言語に翻訳されて大ベストセラーとなりました。
フランクルは強制収容所という極限状況においても、人生に意味を見出すことが可能だと主張しました。多くの収容者が「生きる意味がない」と感じ、中には意図的に脱走を試みて命を落とす人もいました。しかしフランクルは、どんなに絶望的な状況でも生きることの意味を見出すことができると考え、その考えをロゴセラピーという理論体系にまとめました。
心理療法には様々なアプローチがあります。例えば、認知行動療法では思考記録表を使用して認知の歪みに気づき修正を行うという技法があります。ブリーフセラピーではミラクル・クエスチョンという特徴的な質問技法があり、「明日の朝起きて奇跡が起こり問題が全て解決しているとしたら、どこでそのことに気づきますか」といった質問をすることがあります。
心理療法において技法はもちろん重要ですが、その技法をどんなセラピストがどのように用いるかによって、効果は違ってきます。重要なことはセラピストの態度です。カール・ロジャーズが提唱したパーソンセンタード・アプローチでは、セラピストがクライエントに対してどのような態度で接するかが最も重要だと考えます。
ロゴセラピーでもセラピストの態度や技法を重視しますが、それ以外の点で特徴的なのは「セラピストが1人の人間として普段からどのように生きているか」を重視している点です。セラピストは相談時間だけでなく、日常生活全般においてフランクルの人間観や世界観に基づいた生き方をすることが望まれます。
ですから、私の場合は、普段からフランクルが提唱する生き方を実践できるよう心がけながら、心理療法場面ではパーソンセンタード・アプローチに基づいた態度でクライエントに接し、必要に応じて認知行動療法等の技法も活用する、という三段階のイメージでセラピーを行っています。
ロゴセラピーでは「意味を見出す」ことを重視します。例えば、仕事の意味が見出せず退職する人や、不登校の子どもたちが「なぜ学校に行く必要があるのか」と悩み、うつ病の方が「なぜ生きていかなければならないのか」と苦しむケースなどがあります。
重要なのは、意味は行為そのものにあるのではなく、人がその行為をどのように捉えるかによって見出されるという点です。例えば、心理学の授業中に突然「グラウンドを10周を走ってきなさい」と言われても、学生はその行為に意味があるとは思えないでしょう。しかし、甲子園出場を目指す野球部員にとっては同じ「グラウンドを10周走る」という行為は、重要な意味を持つ行為となります。
このように、ロゴセラピーは人が生きることに意味を見出していくプロセスを支援することを主眼とする心理療法です。
人生の意味を見出す「ロゴセラピー」の本質
KL:そもそもなのですが、心理的に幸福な状態にある人がロゴセラピーを学ぶメリットはありますか?
草野氏:まず、「心理的に幸福な状態」というのがどういうことか、すなわち幸せの定義について考える必要があります。多くの人、特に子供たちは学校や親から「人生の幸せ」について一面的な教えを受けることが多いと思います。例えば、勉強を頑張っていい学校に行き、いい会社に入り、お金持ちになって欲しいものを何でも手に入れられるようになれば幸せになれるというような教えです。
しかし、この考え方は社会的・経済的な側面だけを重視しています。ロゴセラピーでは、人間の幸せには2つの軸があると考えています。1つは「社会的・経済的な軸」で、金銭や権力、地位、名誉などの成功や失敗を表します。もう1つは「精神的な軸」で、生き方の充実度や充足感、やりがい、生きがいを表します。
例えば、宝くじで大金持ちになり、欲しいものが何でも手に入る状態になっても、次第に虚しさを感じるようになるというケースがあります。この場合、「社会的・経済的な軸」では高い位置にいても、「精神的な軸」では低い位置にいる状態です。
なぜかは自分でもわかりませんが、私はたまたま受験勉強がよくできて、中学受験をして関西の灘中学に合格し、そのまま灘高校、東京大学へと進学しました。周囲からは「勉強ができてすごい」と言われましたが、いつも「勉強ができて何の意味があるのか?」という虚しさを感じていました。いい学校を出て、いい会社に入り、お金持ちになれたとして、人間の生きる意味はそれだけではないはずだと考えていました。その思いから哲学や宗教学を学んで行くうちに、フランクルやロゴセラピーの考え方に出会いました。
確かに、精神的に充実し、生きがいを感じているという意味で幸福な人にはロゴセラピーは必要ないかもしれません。しかし、社会的・経済的な次元でのみ幸福を捉えているような人、例えば、お金がたくさんあってSNSでセレブな生活を発信して「いいね」をたくさんもらっているような人の中にも、心の奥に空虚感や意味の欠如を感じている人は多いと思います。そのような人々にとっては、ロゴセラピーの考え方は非常に有益だと考えます。
意味の実現が導く新たな人生
KL:確かに、社会的・経済的に成功しても、空虚感や意味の欠如を感じている人は多いと思います。空虚感や意味の欠如に対し、ロゴセラピーではどのような施術がおこなわれるのでしょうか。事例などがあれば、教えていただきたいです。
草野氏:私が病院に入院している生徒のための院内学級でスクールカウンセラーをしていた時の事例をお話しします。個人情報保護のため詳細は控えめにしますが、カウンセリングを行った高校生の事例です。(※インターネットでの公開にあたっては、ご本人とご家族の承諾をいただきました。)
その高校生は病気の発症前は学業優秀で、勉強を頑張って希望の大学に進学することを目標にしていました。しかし、突然脳梗塞となり、従来目指していた進路を断念せざるを得なくなり、深く傷つき、落ち込んでいる状態でした。
優れた能力を持ち、世間から評価される成果を出すことはもちろん素晴らしいことです。しかし、たとえ限られた能力しか持っていなくても、現在の自分にできることを最大限行うこと、現在の自分にとって最も意味のあることを行うことが、人間が生きていく上で最も重要だという、ロゴセラピーの考え方を伝えました。
例えば、大谷翔平選手はメジャーリーグでホームランを打ち、160キロを超える速球を投げることに意味があるでしょう。しかし、全ての人が大谷翔平選手のような能力を持っているわけではありません。高校野球部の補欠選手であれば、剛速球を投げることができなくても、例えばレギュラー選手の練習をサポートすることができます。
世間一般の基準でいえば、メジャーリーグでホームランを打つことと、高校野球部で練習のサポートをすることには大きな価値の差があるように見えるかもしれません。しかし、ロゴセラピーの考えに基づけば、両者の行為の価値は同じです。どちらも自分が置かれている状況において、できることの最善を尽くしているからです。
その高校生に、このようなロゴセラピーの考え方を伝えたところ、今が人生の新たな出発点だと理解してくれました。病気になる前は、将来の夢を叶えるために勉強して良い大学に行くことを目指していました。しかし今は、病気を患った現在の自分の状態からゼロベースで、自分のできることを考え直し、新しい目標を見つけることに価値があると気づいてくれました。
この生徒はもともと、航空整備士になることが夢でしたが、脳梗塞の影響で航空整備士になることは難しくなりました。しかし、仮に航空整備士になることはできなくても、空港や飛行機の近くで働くことができれば、それも夢が叶ったということだと考えられるようになり、将来のことをより広い視野で考えられるようになったと手紙で伝えてくれました。
同様の考え方は他の場面にも適用できます。例えば、医師になることを目指している学生の場合を考えてみましょう。もし医師を目指す理由が高収入や社会的地位のためだけならば、その目標の意味は薄いといえるでしょう。しかし、医学の力で病気の人や困っている人を助けたいという思いで医師を目指しているのであれば、たとえ学力が足りず医学部に進学できなくても心配することはありません。看護師や介護士、病院でのボランティアなど、様々な形で人々を助けることができ、こうした仕事の価値は医師に劣るものではありません。
このように考えることで、夢を叶えることの可能性は広がります。ロゴセラピーによって、現在の自分では駄目だという考えから、どんな状況でも、いつからでも意味のある行動ができるというような発想の転換が可能になります。
良心と自己超越 人間の価値を問い直す
KL:「最善を尽くしているという点で同じ価値を持つ」という場合の価値について、もう少し詳しくお聞きしたいです。例えば、社会に大きく貢献している人と、詐欺師や犯罪者など、両者の生きている価値をロゴセラピーではどのように考えるのでしょうか。
草野氏:ロゴセラピーでは、人間の命の価値は全て同じという考え方をします。ただし、詐欺師として人を騙したり、弱者をいじめたりすることを許容するわけではありません。
ロゴセラピーでは「良心」という概念を重視します。先ほどの補欠の野球部員の例では、レギュラー選手のため、つまり自分以外の誰かのために一生懸命努力しているという点が重要です。一方、詐欺師は相手のことを考えず、自分の利益のためだけに行動します。
意味を実現する際に重要なのは「良心」と「自己超越」です。自己超越とは、自分自身を超えて、自分以外の誰かや何かのために意味のある行動をすることです。
意味のある行動と意味のない行動の違いを説明するために、ある刑罰の例を挙げます。古代には、囚人に穴を掘らせ、その穴を埋めさせ、また同じ場所を掘らせ、また埋めさせるという作業を繰り返させる刑罰があったそうです。肉体的な重労働に加えて、精神的にも辛いのは、穴を掘ることに全く意味がないからです。穴を掘る目的は次に埋めるためだけで、その行為が自己完結してしまい、他の何にもつながっていきません。
一方、同じ穴掘りという行為でも、発展途上国で水不足に困っている村人のために井戸を掘るという場合であれば、肉体的な労力は同じでもその意味には大きな違いがあります。井戸を掘って水が出てきて村人が救われるという形で、自分の行為が他者の幸せにつながっているからです。
人間の存在という観点から考えると、自分の利益だけを追求する行為は自己完結的で、最初は満足感があるかもしれませんが、次第に「自分は誰かの役に立っているのか」「社会における存在意味があるのか」という疑問に直面しやすくなります。
自分の存在に意味を感じるためには、自分の行動が他者や社会につながっていること、良心に根ざしていることが重要です。詐欺師などの人を騙す行為をする人たちは、良心に従った生き方ができていないため、心の底から自分の生き方に満足できないのではないでしょうか。
実際にあるのかどうかは知りませんが、刑事ドラマでは、立てこもっている犯人に母親を連れてきて説得を試みるという場面が出てきます。この作戦は、犯人の中にも良心が眠っているという前提に基づいており、母親の説得によって犯人の良心を呼び覚まそうとしているわけです。
ロゴセラピーでは、どんな悪人と呼ばれる人の中にも良心は存在すると考えます。良心に反した行動を重ねていけば、次第に虚しくなり生きる意味を感じられなくなります。逆に良心に従った行動を重ねていけば、誰かに感謝されたり、誰も見ていなかったとしても自分で自分を好きになれたり、自分が生きていることの意味を実感できるようになるでしょう。
理想論に聞こえるかもしれませんが、ロゴセラピーでは、人間はこのような存在だと考えています。
現代社会におけるロゴセラピーの課題
KL:ロゴセラピーの考え方はわかりました。では、ロゴセラピーにおける問題点などあるのでしょうか。
草野氏:最も大きな問題点は、ロゴセラピーの定義の難しさです。ロゴセラピーとは具体的にこうしたりこう言ったりすることだ、という定義ができません。現状では、ロゴセラピーとは「ロゴセラピーの理念に従って、自分自身の人生を意味あるものにしようと生きているセラピスト(ロゴセラピスト)が行うセラピー」という説明の仕方になってしまいます。
一方、心理療法の中には、具体的な方法が明確に定められているものもあります。例えば8週間かけてこのようなプログラムを行う、ということが決まっていたりします。治療的介入のターゲットとなる症状や問題行動を特定し、介入の前後でそれらの変化を数量的に測定することによって、治療効果のエビデンス(科学的根拠)を示すことができます。こうした明確な方法論がある心理療法は、様々な患者に対して同じ治療を実施し、その結果どのような変化が起きたかを実証的・科学的に研究しやすい特徴があります。
しかし、ロゴセラピーには明確な理念はありますが、方法はセラピスト個人の判断に依存し、クライエントの発言に対する応答も状況に応じて変化します。セラピストの言動は常に臨機応変、ケースバイケースです。したがって、何が治療的に作用したのかというエビデンスを収集しにくく、現代では評価されにくいかもしれません。
というのも、保険診療の適用判断や国家予算の配分といったマクロレベルの判断においては、エビデンスが不可欠だからです。国の予算をエビデンスが明確でない治療法に配分することは困難でしょう。そのため、客観的な指標によって評価することのできる実証的な治療法が社会の主流となり、ロゴセラピーが周辺的な位置づけとなるのはやむを得ないと私も思います。
ただし、ロゴセラピーが社会の主流にはならなくても、ロゴセラピーの理念が消滅してしまわないように社会に伝え続けることは、非常に重要だと考えています。なぜなら、ロゴセラピーのような考え方は社会の「ブレーキ役」として必要だからです。
人生における縦軸と横軸の話に関連しますが、横軸の要素(年収、所得など)は数値化が容易です。一方、縦軸は自分自身の主観的な感覚であり、数値化や定量化が困難です。
現代の資本主義社会への批判にも通じますが、社会が目に見える数値でのみ物事の価値を判断するようになれば、人間として最も大切なものが見失われる危険性があります。私のクライエントのように、優秀な成績で進学していた学生が病気で学力が低下した場合、人間としての価値が下がったかのように本人や周囲が考えてしまうことがあります。このような考え方は危険であり、避けるべきです。
全てを定量的に測定し、数値が高ければ良い、豊かであれば良いという考え方に対するアンチテーゼとして、ロゴセラピーの考え方を伝え続けていくことは、私は大切だと考えています。
人生の意味という答えのない問いへの向き合い方
KL:では、ロゴセラピーで考える、私たち人間が生きていることの意味について教えていただけないでしょうか。
草野氏:少し期待外れかもしれませんが、ロゴセラピーでは「人間は○○のために生きる」という全ての人間に当てはまる普遍的な正解は存在しないと考えます。もし明確な答えがあれば簡単なのですが、残念ながらそのような答えは存在しない、というのがロゴセラピーの立場です。
この点がロゴセラピーと宗教の大きな違いです。例えば仏教では、現世で徳を積むことで来世でより良い場所に生まれ変わり、悪事を働けば地獄に落ちるという輪廻転生の考え方があります。生まれ変わりを繰り返して徳を積み続け、最終的に輪廻から解脱することが人間の生きる意味だと教えています。キリスト教であれば、聖書の教えに従って生きることで、たとえ現世では報われなくてもやがて最後の審判がきて永遠の天国に行くことができると考えます。
この考えを信じることができれば、現在の苦労や不条理さも受け入れやすくなります。真面目に生きることが辛く、不正な方法で利益を得ている人々を見ると腹立たしく感じるかもしれません。しかし、「悪事を働く者は来世で地獄に落ち、真面目に生きる自分は良い場所に生まれ変われる」と考えれば、真面目に生きるモチベーションとなり、社会秩序が維持されます。
ただし、この考え方は信仰の有無に大きく依存します。輪廻転生や最後の審判を信じることができない人には、真面目に生きていく動機が見つからない可能性があります。
それに対して、ロゴセラピーは、人生の意味についての普遍的な答を提示するものではありません。各個人が自分で自分の人生の意味を見出していく必要があります。ロゴセラピーの理念から「どのように生きれば人は人生に意味を見出すことができるか」という生き方の方向性を示すことはできますが、本人が実際にそのように生きなければ、たとえロゴセラピストであっても他者に意味を与えたり教えたりすることはできません。
私の学生時代は勉強はできたけれどそのことに意味を見出せなかった、という話をしました。その頃ずっと考えていたのが「人間はいったい何のために生きているのか?」という問いでした。しかし、このように「人生には何の意味があるのか?」と問うこと自体が、方向性としては間違っていたのです。いくら問うても神様が現れてお告げをくれるわけでもないし、その答えは永遠に得られないからです。
ロゴセラピーでは、人間は人生から問われている存在だと考えます。人生は「あなたは今何をするのか?」と問いかけてきます。人生は「あなたはこれをしなさい」という命令はしてきません。しかし、常に「今この瞬間に最も意味のあることは何か」を問いかけています。その問いに対して自分で答えを見つけ、実行することが大切です。
先ほども例に挙げた高校野球部の補欠選手の場合を考えてみましょう。レギュラーになれなかったことで挫折し、「自分には才能がない」とふてくされて努力をやめることもできます。レギュラー選手に嫉妬して、スパイクに画鋲を入れるということだって、やろうと思えばできます。しかし、良心に従って考えれば、そのような行為に意味はないでしょう。補欠という立場で最も意味のある行動は、例えばレギュラー選手の練習をサポートすることなどが考えられますし、それ以外にも様々な意味ある行動の選択肢が見つかるでしょう。
別の例でも考えてみましょう。私がロゴセラピーの講演を行っているときにいつも例に挙げるのは、まさにその瞬間の「私がロゴセラピーについて講演を行っている」という状況です。その状況で、私がとることのできる行動の選択肢は無限にありますが、以下に3つ挙げてみます。
- できるだけ分かりやすくロゴセラピーについて説明する
- 緊張して怖くなってきたので、途中で逃げ出す
- ちょうどマイクを持っているので聴衆にカラオケを披露する
この3つの行動の選択肢のどれを選択することも、講演中の私には可能です。しかしその状況でどの選択肢に最も意味があるかと考えれば、それはAでしょう。しかし、状況は刻々と変化していきます。もしも講演中に大地震が発生すれば、その状況でいくら分かりやすくロゴセラピーの説明をしても、そのことに意味はありません。その状況では、落ち着いて冷静に避難することが最も意味のある行動となるでしょう。
このように、時々刻々と変化する状況の中で、自分の良心に照らして最も意味のある行動を選択し続けていくことによって、人生を意味あるものにすることができます。言い換えれば、私たちが「人生の意味」を実現するためには、一瞬一瞬変わりゆくそれぞれの状況において「瞬間の意味」を実現していくことが必要だということです。
「人生の意味」と「瞬間の意味」について、私は川のイメージで考えています。例えば東京の利根川を見る時、昨日も今日も明日も、それは同じ「利根川」という名で呼ばれる川です。しかし実際には、昨日見た利根川と今日見た利根川は、全く別のものです。なぜなら、昨日と今日でそこに流れている水は全て入れ替わっているからです。「川」とは実際には一粒一粒の水滴の集まりにすぎません。しかし、それを俯瞰して見たときに、私たちはそれを「川」という1つの実体であるかのように認識します。
人生も同様で、私たちは「人生の意味」「人生とは何か」という風に、まるで人生というものを1つの実体であるかのように扱いがちです。しかし実際には、人生とは誕生の瞬間から死の瞬間までの「瞬間」の集合体です。それぞれの瞬間に自分がどのような行動を選択するか、その行動は自分だけのための自己完結的なものでなく他者や社会に開かれた自己超越的な行動になっているか、それが重要です。
無限に続く瞬間の中で、意味のある行動が選択できないことはいくらでもあります。「本来はこうすべきだった」と後悔することもあります。しかし、後悔している間にも次の瞬間は訪れています。過去の失敗を悔やんでいる暇があれば、今現在のこの瞬間にできる最も意味のある行動を選択すれば良いのです。
自己完結的ではなく自己超越的であることが大切だと述べましたが、常に100%完璧に他者のために生きることは誰にもできません。もちろん私自身もできていません。ですから、できない自分を責める必要は全くありません。しかし、単に自分の利益だけを追求したり、周囲に流されて行動したりするだけでは、人間は自分が生きていることの意味を見失ってしまいます。100%完璧には無理でも、それぞれの瞬間において良心で感じ取った最も意味のある行動をできる範囲で積み重ねていく。私たちにできることは、ただそれだけです。
そのような生き方ができれば、人生は価値あるものとなり、自分が意味のある存在だという実感が得られてきます。逆に、自分の利益だけを追求するような生き方をすれば、「自分が生きていることに何の意味があるのか」という虚しさを感じることになるでしょう。
ロゴセラピーの今後とアドバイス
KL:先生もおっしゃられたように、ロゴセラピーの考え方は素晴らしいのに、世間であまり認知されていないように感じます。今後ロゴセラピーは世の中に浸透していくのでしょうか。
草野氏:2024年の4月から、NHKの「こころの時代」という番組で6回シリーズとしてフランクルやロゴセラピーをテーマとした放送がされました。また、著名人の中にもフランクルの思想に触れている方々がいます。
例えば、女優の門脇麦さんは、ヴィクトール・フランクルの考え方に救われたと公言しており、NHKの「こころの時代」のナレーションも担当しています。ボクサーの村田諒太さんも、ボクシングという過酷な世界でヴィクトール・フランクルの思想に影響を受けたと語っています。
東京大学教授の福島智先生も、全盲ろうという状況でありながら、フランクルの思想に救われたと述べています。また、東日本大震災の直後には、仙台の書店でフランクルの著書が人気を集めました。人々が自力では如何ともし難い状況の中で意味を見出せる思想として注目されたためです。
このように、これまでにも多くの人がヴィクトール・フランクルの思想について語っているのですが、「ロゴセラピー」という言葉はあまり使用されていませんでした。その理由は、フランクルの著作が哲学的な内容に重点を置き、実践的な心理療法としての方法論についてはあまり記述されていなかったからだと思います。
ロゴセラピーの実践方法は、フランクル自身よりもその弟子であるエリーザベト・ルーカスの著書で、より具体的に論じられています。今回私たちが翻訳したのが、そのルーカスの著書『ロゴセラピー 人間への限りない畏敬に基づく心理療法』です。これは、フランクル以降のロゴセラピストによるロゴセラピーの実践に関する著書の初めての邦訳だと思います。
私のロゴセラピーの師匠であり、「こころの時代」の解説も務めた勝田茅生先生は、ドイツに在住しながら、年に3回日本に帰国してロゴセラピストの養成を行っています。勝田先生は、ルーカスのもとでロゴセラピーを学び、日本人初のロゴセラピストとなった人です。今回ルーカスの著書の翻訳を出版できたことで、ロゴセラピーがより広く普及していく可能性があると感じています。
ロゴセラピーがそれほど普及しない理由として、私にはもう一つ思うことがあります。ロゴセラピストとしては、ロゴセラピーを広めることが最優先にはならないということです。なぜなら、ロゴセラピストにとって最優先のこと、すなわち今この瞬間にこの状況で最も意味のあることを行うということは、目の前のクライエントにとって最善の援助を行うことだからです。
クライエントにとって最適な方法を提案し、クライエントにとって最善の援助を提供した結果として、ロゴセラピーが広まればうれしいですが、ロゴセラピーを広めるということ自体は、ロゴセラピストにとって直接の目的にはなりません。「目の前の人にとって最善のこと」よりも「ロゴセラピー」を優先してしまえば、私はロゴセラピストではなくなってしまいます。そこに矛盾があり、マーケティングという観点からは弱いかもしれませんが、個人的にはそれでも構わないと思っています。
KL:ありがとうございます。では最後に、この記事の読者には企業家志望の学生が多いため、企業家志望の学生向けにアドバイスをいただけますか。
草野氏:ビジネスの世界でも、自分や自社の利益だけを追求する姿勢では成功は難しいと聞きます。もちろん、事業として赤字は避けなければならず、利益を上げることは重要でしょう。しかし、自分たちのビジネスが社会にどのように貢献できるか、言い換えれば、自分たちのビジネスが社会にとってどのような意味を持つか、という視点を大切にしてもらいたいと思います。
私の知る限りでは、優れた経営者はみな社会への貢献という意識を持っているように思います。社会への貢献と自社の利益は対立するものではなく、社会の利益を実現しようとすることが、結果として自社の利益にもつながる好循環を生み出すのではないでしょうか。「自社中心主義」ではなく「意味中心主義」の視点でビジネスを展開していただけると、ロゴセラピストとしてはうれしく思います。インタビュー
感想;
ロゴセラピーに私がロゴセラピーに関する本を読んだメモと感想を掲載しています。
ロゴセラピーはセラピーの側面を持っていますが、エデュケーションの要素が大きいセラピーです。
生きる意味が見いだせない、何のために生きているのか分からない、なぜ死んではいけないのかなど、生きる根源の問いにヒントを与えてくれるように思います。
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