「永遠の別れ」 エリザベス・キューブラ・ロス デーヴィッド・ケスラー共著
自殺;
遺族の許諾を得て、自殺した男性の遺書を引用させていただく
愛するママ、パパ、そしてグレゴリーへ
自殺という道を選ぶことしかできず、なんとお詫びしていいかわかりません。でも、ぼくは深い溝にはまりこんだまま身動きもとれず、もういきる希望もありません。自分で自分に仕掛けた「不可解」という謎から、自分を解き放ちたいのです。ぼくは自分自身も、自分のたましいも、存在理由も、人生の目的も、永久に失ってしまいました。いったなにが正しいのか、わけがわからなくなりました。
ものごとをすべて否定的に考える地獄のような生活に疲れはて、その責め苦くから逃れることができなくなりました。周囲の全てが怖くてしかたがないのです。ありとあらゆる自殺の方法について考えましたが、いつもママやパパ、グレゴリーのことを思っては、全力でその誘惑と戦ってきました。希望がみえたような気がしたときもありましたが、すぐに疑いのこころが生じました。自殺はいちばん弱い人間が選ぶ道だということはわかっています。たぶん、そのとおりでしょう。でも、ぼくはもうぼろぼろで、しかもそれはみんなぼく自身のせいなのです。
こんなことになって、ほんとうに申し訳ありません。これまでぼくが家族に心配をかけてきたこと、これからまた家族に苦しみを与えようとしていることにたいして、こころからお詫びします。これは不当なことであり、見苦しく、恥ずべきことであるのはわかっています。でも、ぼくは弱虫で、これ以上、生きてはいけないのです。もし、計画どおりに自殺することができたら、神が理解してくださることを望んでいます。いちばんつらいのはみんなを、家族を失うことです。それでも、これしか方法がみつからないのです。全てにうんざりしている子の気持ちを、もうかえることはできません。ママ、ごめんなさいママの全てを愛しています。自分自身を責め、ママを苦しめてきたこの地獄からたましいを解き放ち、この地球から飛び立つときがきたのですこの怒り、この苦しみ、そして、それをどうすることもできないこの情けなさをママに伝えることができたら、どんなによかったことでしょう。
ぼくがほしかったものは愛だけでした。少なくとも、いまはそう感じています。でも、ぼくのなかには、もう愛がないのです。ぼくは愛のある人間でないこと、ぼくという存在を恐れています。それはぼくではありません。もう自分自身のことさえわからなくなりました。自分を知ろうと、努力はしたつもりです。でも愛のないのはだれのせいでもなく、ぼく自身のせいなのです。それでも、家族のみんなをどんなに愛しているかだけは、わかってほしいのです。これからもきっと愛しつづけます。いままでのようなかたちではなく、霊となって愛しつづけます。
神の庇護があることを、神がぼくを理解し、許してくださることを望みます。また家族のみんなと会いたくなることはわかっています。みんなといっしょにいるため自殺を思いとどまり、この悩みの解決に取り組みたいと、どんなに思ったことでしょう。でも、それはできないです。神が遣わしたこのエネルギーの流れを止めることはできません。この世に救いはなく、ぼくは身動きとれません。自分が人生でなにもなし遂げなかったことに、ひどい敗北感を感じています。自分の無能さに打ちのめされています。ほんとうにごめんなさいみんなを愛しています。どうかお許しください。だれのせいでもありません。みんなぼくのせいなのです。
愛をこめて ロバート
ロバートは何度か自殺を試み、この遺書を書いたあとでついに自殺をとげた。これは本物の遺書である。随所に自殺を図る人たちのこころの動きが描写され、生の葛藤、落伍者意識、思いどおりにいかなかった絶望感などがはっきり読みとれる。この遺書からは、自殺者を誘う「希望の喪失」というサインの音をききとることができる。
自殺者は死を望んでいるわけではなく、何とかして苦痛から逃れたいのだ。ロバートは明けても暮れても、生きつづけようとして自分のこころと戦っていた。彼にはおぼろげながら「そうなりたい人間像」があったが、そうなれなかった。彼は愛する人たちに、自殺が彼らのせいでないことをきちんと伝えていた。
しかし、この遺書にもっぱらロバートだけの葛藤が記され、家族の責任ではないことが明記されていたからといって、それで家族が慰められるわけではない。
感想;
自殺者は今がとても苦しくて、この苦しみから逃れたいと思っているそうです。自分が自殺すると家族が悲しむのはわかっていても、ごめんなさい、家族の悲しむことよりも、逃れたい方を優先してしまいます。この遺書では、そのことが記されていました。どうすれば、こういう人を救うことができるのだろうか?と思いました。
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