「法然・愚に還る喜び」 町田宗鳳著より
”月かげ(月光)の 至らぬ里はなけれども 眺むる人の 心にぞ住む” 法然
人々みんなに阿弥陀仏の救いは与えられているが、その救いを自分の心に受け入れなければ、その救いは得られないと。
ルカによる福音書 5章36~39節
だれも新しい着物から布切れを切り取って、古い着物に継ぎ当てはしない。まただれでも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れでるし、皮袋はむだになる。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」
死ぬとは極楽への旅立ち
念仏を唱えることが功徳であり救い
昨日に縛られず今日を新たに生き直す
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/turezure_zen.html
徒然草 第三十九段
或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。
念仏していて、どうしようもないほど眠たい時はどうしたらよいか?の問いに、法然は寝てからまた念仏をすればよいと。
法然は天台宗を比叡山で修業し、その後、43歳で山を下り市中で専修従念仏を始めた。それが今の浄土宗であり、弟子に親鸞がいた。法然は天台宗の座主になる期待も持たれるほどの学識を持っていたそうです。天台宗での自分のある程度約束された栄光を捨てて「阿弥陀仏」に「南無阿弥陀仏」と念仏することで人は救われるとの教えを伝えて行きました。
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