かつて「魂のない心理学」というものが存在した。これはもうかなり昔に消えたのだが、今日の心理学も精神がない心理学だと批判されても仕方がないかもしれない。これは精神性のない心理学は人格の尊厳やまた人格そのものに対して盲目であるばかりでなく、価値に対しても盲目なのだ。つまりそのような心理学は、世界が人格的な存在と関わり合うような価値に対しても、また意味と価値の世界に対しても、そして最終的にはロゴスに対しても、目を開か負うとしないからである。
感想;
ロゴセラピーでは
精神
↓↑
心 ⇔ 体
の3次元で考えます。
多くの心理療法は心と体(心身態)を扱っています。
今の境遇が真っ暗と思うような状況でも、未来に何か待っているという、希望(光)を持っていると何とか今を乗り越えることが出来る場合があります。
希望(光)を持とうする精神次元が生きる上でも大きいのではないでしょうか。
ロゴセラピーでは自分が人生にまったく希望を見出せない状況でも、人生が自分に希望を持っていると考えます。
ロゴセラピーは、「自分を超える意味の存在を信じるセラピー」と言えます。
それを確信している人でないと、他の人に伝えることができないのです。
ロゴセラピーはセラピーという言葉を使っていますが、オーストラリアのウィーンの研究所では、最近では、ロゴセラピーという言葉より、ロゴ教育学という言葉がより多く使われているそうです。
自分の人生をより良くするための自分自身を教育するセラピーと言えるかもしれません。
人は人生の問いかけに対して選択する自由があると考えます。
そしてその選択したことの責任を持つのであり、誰もその責任を奪うことができないのです。
よって、ロゴセラピーは責任教育とも言えます。
ナチス強制収容所で多くの人が亡くなりました。
フランクルは『夜と霧』の中で、過酷な収容所の生活の中で希望を失った人は頑強な体でも早く弱ってガス室に送り込まれたそうです。
そんな中、希望を持っていた人、①フランクルは別れた母と妻に再開したい、『死と愛』の論文を完成させたいとの希望を持っていました。
もちろん希望を持ったからといって簡単に生き残るほど甘くはなく、多くの奇跡とも思える偶然のおかげもあったそうです。
仏教で”自明灯”という言葉があります。
真っ暗な中で自らが灯りを灯して真っ暗な中足元を照らし、一歩一歩前を歩みます。
まさにそれは希望なのです。
そしてこの自明灯は自分の足元を照らすだけでなく、他の人の明かりにもなっているのです。
人は今の境遇で、自分の役割を見つけていると何とかそれをしようと思います。
『流れる星は生きている』藤原てい著
乳飲み子と小さな子どもの二人を抱えて、朝鮮半島から日本に帰るときの生死を分ける過酷な状況に遭遇しながら無事帰国を果たしました。
「二人の子どもは私が守らなければならない」との大きな意味を持っていたのです。
『生きがいについて』神谷美恵子 著
小豆島のハンセン病の隔離されている人々の精神ケアを担っていました。
そこでは衣食住が約束されていましたが、多くの人々に”何かしよう”とのはきがないことは感じました。そして人は生きるためには何か自分の生きがいを持つことが大切だと実感されたようです。その生きがいは”誰かのために、何かのために、社会とつながっている”ではないかと。
この2冊はお勧めです。
生きる意味、目的をどう持つかが問われているのでしょう。
これにヒントを与えてくれるのがロゴセラピーです。
今日はこれまで生きてきた日の最後の日との視点ではなく、
今日はこれからの未来の最初の日との視点を持つこともできるのです。
「もっと若かったら・・・」と言う人も多いかと思います。
でも視点を変えると、これからの人生において、今が一番若いのです。
これからの人生、どう生きるかは自分の選択肢なのです。
それを自分に言い聞かせています。すぐに忘れてしまうので。涙