覚馬(西島秀俊)のいくさ。
それは京都に<文明の町>をつくることだった。
京都については「会津が命がけで守った場所」とも発言。
覚馬にとって京都は<第二の会津>だったんでしょうね。
そして、この場所に新しいふるさと、覚馬の言葉を借りれば「薩摩や長州に関係のない豊かで広い世界」をつくろうと考えた。
山川浩(玉山鉄二)が斗南にふるさとをつくろうとしたのと同じように。
以前にも書きましたが、それは<創造>の行為。
幕末編が<破壊>だとしたら、明治編は<創造>。
地面の種が芽を出し、成長して、花を咲かせるまではまだまだ時間がかかるでしょうが、創造の行為は美しい。
なのに人はなぜ破壊をやめないのだろう?
この作品には<破壊>と<創造>の対立葛藤がある。
歴史は<破壊>と<創造>の繰り返し。
<破壊>は今後、西南戦争や日清日露戦争で描かれていくのかな?
対立葛藤といえば、今回は新しいテーマが提出された。
<武器=鉄砲>と<知識>の対立葛藤だ。
覚馬は八重(綾瀬はるか)に言う。
「これからは学問がお前の武器だ」
「知恵と知識が一番の武器になる」
八重に鉄砲を捨て、知識を手に入れろと説く覚馬。
<知識>
たとえば、万国公法は外国と交渉し、戦っていくための武器になる。
英語も交渉のためには欠かせない。
<知恵>
たとえば「ひな人形を外国に売る」という発想が知恵だ。
新島襄(オダギリジョー)も山川捨松(水原希子)に「国費を利用しておおいに学べ。美味いものを食べろ」と言った。
これも発想の転換であり、知恵だ。
知識と知恵があれば、いくらでも戦えるし、世の中を豊かに出来る。
<創造><知識><知恵>、じつに前向きで明るい言葉ではないですか。
山川捨松の美しさはその象徴。
それに比べて<破壊><武器>という言葉は、やはり後ろ向きだ。
鉄砲を撃つ八重より書物に向かう八重の方が魅力的に見える。
それは京都に<文明の町>をつくることだった。
京都については「会津が命がけで守った場所」とも発言。
覚馬にとって京都は<第二の会津>だったんでしょうね。
そして、この場所に新しいふるさと、覚馬の言葉を借りれば「薩摩や長州に関係のない豊かで広い世界」をつくろうと考えた。
山川浩(玉山鉄二)が斗南にふるさとをつくろうとしたのと同じように。
以前にも書きましたが、それは<創造>の行為。
幕末編が<破壊>だとしたら、明治編は<創造>。
地面の種が芽を出し、成長して、花を咲かせるまではまだまだ時間がかかるでしょうが、創造の行為は美しい。
なのに人はなぜ破壊をやめないのだろう?
この作品には<破壊>と<創造>の対立葛藤がある。
歴史は<破壊>と<創造>の繰り返し。
<破壊>は今後、西南戦争や日清日露戦争で描かれていくのかな?
対立葛藤といえば、今回は新しいテーマが提出された。
<武器=鉄砲>と<知識>の対立葛藤だ。
覚馬は八重(綾瀬はるか)に言う。
「これからは学問がお前の武器だ」
「知恵と知識が一番の武器になる」
八重に鉄砲を捨て、知識を手に入れろと説く覚馬。
<知識>
たとえば、万国公法は外国と交渉し、戦っていくための武器になる。
英語も交渉のためには欠かせない。
<知恵>
たとえば「ひな人形を外国に売る」という発想が知恵だ。
新島襄(オダギリジョー)も山川捨松(水原希子)に「国費を利用しておおいに学べ。美味いものを食べろ」と言った。
これも発想の転換であり、知恵だ。
知識と知恵があれば、いくらでも戦えるし、世の中を豊かに出来る。
<創造><知識><知恵>、じつに前向きで明るい言葉ではないですか。
山川捨松の美しさはその象徴。
それに比べて<破壊><武器>という言葉は、やはり後ろ向きだ。
鉄砲を撃つ八重より書物に向かう八重の方が魅力的に見える。