はつかりの はつかにこゑを ききしより なかそらにのみ ものをおもふかな
初雁の はつかに声を 聞きしより 中空にのみ ものを思ふかな
凡河内躬恒
初雁の声のようにわずかに声を聞いてからというもの、うわの空であの人のことを思う気持ちでいることよ。
秋になると聞こえてくる初雁の鳴き声に準えて、声は聞いたけれどまだ姿を見ぬ人への恋心を詠んでいますね。声だけを聞いたり姿をかすかに見たりといった、まだ相手と直に会って話したりしていない段階で抱いた恋心の歌が続いています。「春歌」など季節の歌では、その季節の始まりから時のうつろいに沿って歌が配列されていましたが、それと同じく、「恋歌」も恋の始まりから順に歌が並べられているのですね。
たよりにも あらぬおもひの あやしきは こころをひとに つくるなりけり
たよりにも あらぬ思ひの あやしきは 心を人に つくるなりけり
在原元方
「思い」というものの不思議なところは、手紙を届ける使者でもないのに、恋心を相手に届けることなのだなあ。
相手に対する自分の「思い」自身がまるで手紙を届ける使者であるかのように、自分の恋心が相手に届く、という訳ですが、「相手に届く」は文字通り(と言うか現代の感覚と同じく)思いが相手に伝わるということなのか、あるいは自分の気持ちが相手に引き寄せられることを比喩的に表現しているのか、どちらとも取れるように思います。
この歌には特異なエピソード(?)があり、まったく同じ歌が「後撰和歌集」では貫之作として採録されています(巻第十 687番)。実際は貫之作で、古今和歌集編纂時に生じた誤りを息子の時文が撰者となっている後撰和歌集で修正・再収録したとも考えられますが、一方で古今集の撰者である貫之が自作の歌を元方の歌として誤って収録するというのは考えにくい気もしますね。事の真相は分かっていないようです。