『名も無く豊かに元気で面白く』

読んだ本、ニュース、新聞、雑誌の論点整理、備忘録として始めました。浅学非才の身ながら、お役に立てれば幸いです。

令和の時代に江副浩正氏が甦る「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」

2021-05-29 07:23:25 | 日記
報われないオッサンの自虐大会サラリーマン川柳が開催され、 「リモートで 便利な言葉 “聞こえません!”」 
「わが部署は 次世代おらず 5爺(ファイブジイ)」 後ろ向きな句ばかりでしたが、昭和末期を駆け抜けた
起業家精神に富んだ東大出身の経営者江副浩正氏がコロナ禍で混迷する令和の時代に蘇ってきています。

以下抜粋コピー
今から60年前、当時は簡単に入手できなかった企業の採用情報を就職希望の大学生に無料で提供するサービスを
開始したのが、リクルート(当時の社名は「大学広告」)の創業者・江副 浩正氏です。同社には、起業家精神
あふれる若者が集まり、業界に革命を起こしました。企業としては飛躍的な成長を遂げますが、江副氏自身は
戦後最大級の疑獄事件とも言われた「リクルート事件」の後、同社の経営から退きます。かつて「東大が生んだ
戦後最大の起業家」と言われた江副氏は、なぜリクルートという特異な企業をつくり上げることができ、経営
者として何を誤ったのでしょうか。
●東京大学卒業後、フリーランスの広告代理業としてスタート  同年4月、江副氏は「大学新聞広告社」を創業。
森ビル発祥の地である現在の西新橋にある森ビルの屋上の物置小屋で事業をスタートさせます。  森ビルの実質
的創業者でもある森 稔氏が大学の2年先輩という縁からですが、エレベーターも空調もない4階建てのビルの屋上
にある4畳半、家賃月7,000円の物置小屋は雨漏りがするため、森氏に言うと「仕方がないよ。モリビルだもの」
という返事が返ってきたといいます。今日の森ビルリクルートからは想像できないスタートです。  江副氏は
東京大学以外にもいくつもの大学の大学新聞の広告営業も請け負い、東京大阪間を夜行列車で頻繁に出張する
など精力的に仕事をこなしますが、忙しいのは5月から7月までの就職シーズンだけというバラつきの大きい仕事
でした。企業の入社案内の制作なども受注しますが、ライバルも多く、利益の薄い仕事でした。
 ●高度成長期の日本が抱えていた「人材採用の課題」  さらに、大学新聞の広告スペースは総ページの2分の1以下に
制限され掲載数も限られるため、申し込みを受けたすべての会社の広告を載せることはできません。  一方で、高度成
長期に入った日本企業の採用意欲は高く、実力のある若者を積極的に採用したいものの、そのための手段は限ら
れており、学生も手に入る企業情報が少ないという問題を抱えていました。理工系の学生の就職先は教授の推薦
で決まり、文系に関しても就職部が力を持っていた時代でした。  これでは教授や就職部とのパイプを持たない
企業は採用に苦戦しますし、学生も自分の意志で本当に行きたい企業を探すことはできません。だからこそ
江副氏が目を付けた大学新聞への広告は企業からも学生からも歓迎されたわけですが、大学新聞にも先述のよう
な限界がありました。  「何か良い方法はないか」と考えていた江副氏の元に大学の先輩から送られてきたのが
米国で発行されている『キャリア』という学生向けの就職ガイドブックでした。それを見た江副氏は、自前の
就職ガイドブック『企業への招待』(のちの「リクルートブック」)の刊行を決意します。こう振り返ってい
ます。 「昭和36年8月、われわれはわが社の今日を決める重大な決定を行った」 1961年、江副氏は『企業への
招待』という“広告だけの本”を無料で学生に配り、求人広告を出した企業からの広告収入だけで回すという前代
未聞のビジネスモデルを考案。新たな挑戦に乗り出すことになったのです。
●予想外の苦戦。就職情報誌『企業への招待』の創刊  大学新聞の広告営業で素晴らしい成績を上げていただけに
江副氏は自信満々でした。1社30万円の広告料金で、100社は確実と見込んでいましたが、いざ営業を開始すると
企業の反応はつれないものでした。大学新聞には信用があっても、『企業への招待』には何の実績もありません。
大半の企業はライバル企業の名前を出し、「他社が出すなら」と体よく断りました。  就職活動開始まであと
数カ月という段階でお金を払ってくれたのはそれほど有名でない企業20社のみ。これでは学生に相手にされない
と判断した江副氏は「大手企業の広告は無料でいい」と腹をくくり、最終的に無料が40社、有料が29社の計69社で
『企業への招待』の創刊号はスタートしました。  売り上げは見込みの3分の1でした。赤字は大学新聞の広告営業
で何とか埋めたものの、発行を続ければ資金繰りで苦しむことになります。江副氏は悩みますが、学生から感謝の
はがきがたくさん寄せられたことや、東大や一橋、早稲田や慶應の学生に無料で配った『企業への招待』が古本屋
で売られ、無料配布の対象から漏れている大学の多くの学生が購入していることを知り、こう決意を固めました。
 「この仕事は社会のお役に立つ仕事だ。すべての学生にこのサービスを提供することをこれからの仕事にしよう」
 ●「自分より優秀な人を」、江副氏の採用にかけた思い  1963年、社名を「日本リクルートセンター」と改め
『企業への招待』に本腰を入れ始めた江副氏は自社でも良い人材の採用に着手します。当時としては珍しく給与面
でも仕事の面でも女子学生と男子学生を差別せず、かつ若い社員にも大きな権限を持たせる同社には多くの優秀な
人材が集まり、その才能とやる気が同社を大きく成長させることになりました。江副氏の採用にかける思いは次の
ようなものでした。 「われわれのあとに続く人は、われわれより優秀でなければならない」 良いアイデアを持つ
人間には年齢やキャリア関係なしに「じゃあそれ、君がやってよ」と任せることで新しいプロジェクトを生み出し
ていきました。「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という同社のキャッチフレーズは、江副氏の
こうした考え方を端的に表したもので、そんな社風を持つ同社が多士済々な人材を輩出したのは決して偶然ではあ
りません。
 ●競合との激戦、「2位になることは死である」 
 その後、同社は順調に成長しますが、有望な市場にはライバルが参入するのは当然のことです。中でも1967年に
ダイヤモンド社が『就職ガイド』を創刊した時と、1983年に読売新聞が住宅情報誌『読売住宅案内』を創刊した時
にはリクルート社内に大きな緊張が走ったといいます。 特にダイヤモンド社の時には、リクルートはまだ売上高
1億円余り、社員も48人と弱小だっただけに江副氏の危機感は強く、ダイヤモンド社を訪問して社長に「やめてい
ただけませんか」と直接訴えています。しかしその願いが聞き入れられることはなく、江副氏は全社員を集め
このようにげきを飛ばしています。 「あのダイヤモンドがわれわれを潰しに来る。これは戦争だ。完膚なきまで
に叩きのめさないと、われわれがやられてしまう!」 「同業者競争に敗れて2位になることは、われわれにとって
の死である」 アマゾンやグーグルなどが創業期から利益を度外視してでも急速な成長を目指したのはシェアの高さ
規模の大きさこそが将来の利益につながることをよく知っているからです。1位と2位の間に大きな差が開いてしま
えば、2位には居場所がなくなることを江副氏はこの時期から理解していたのでしょう。  2番手には居場所がない
以上、生き残るためには「勝ち残る」ほかありませんでした。
競争の1年目、老舗企業ダイヤモンド社はリクルートの519社をはるかに上回る885社の求人広告を掲載、圧倒的強さ
を見せつけますが、江副氏は自社のガイドブックに載っていない企業に広告を取りに行くことを厳命します。 
 やがてその努力が実を結び、リクルートはダイヤモンド社をはるかに上回るシェアを持つ会社へと成長すること
となったのです。ダイヤモンド社以外にも就職情報誌市場にはその後も多くのライバルが参入しますが、リクルート
は変わらず圧倒的シェアを維持し続けています。  トップへのこだわりは読売新聞との闘いでもいかんなく発揮され
ています。江副氏は新聞の発行部数日本一の読売新聞を相手に「生き残るのはナンバーワンだけだ」と社員にげきを
飛ばし、わずか3年で読売新聞の『読売住宅案内』を廃刊に追い込みました。
 ●「時代の寵児」からの転落  リクルート
という企業が「情報誌事業」の枠にとどまっていれば、その後の事件が起きることはありませんでしたが、江副氏の関心は
コンピューターと不動産に向かいます。コンピューターへの投資は、時間はかかったものののちに同社で大きく花開く
ことになりますが、不動産への関心と執着は江副氏自身と同社を危機に陥れることになりました。  江副氏が設立し
た不動産開発の環境開発(のちのリクルートコスモス。1973年設立)と、ノンバンクのファーストファイナンス(19
76年設立)の2社が、日本がバブル景気へと向かう中で急成長を遂げます。この時期、日本の土地は高騰、株価も急上
昇し、不動産業界や証券業界はまさに我が世の春を謳歌(おうか)していました。  当時、江副氏は時代の寵児でした。
政財界とのつながりも深くなっていた江副氏がリクルートコスモスの店頭公開を直前に控えているにもかかわらず
値上がり確実なコスモス株を多くの人に安い値段で譲渡したことが、その後、戦後最大級の疑獄事件とも言われた
「リクルート事件」へとつながっていったのです。  1989年、江副氏は逮捕されますが、さらに追い打ちをかけます。
バブルの崩壊によってファーストファイナンスやリクルートコスモスの抱える巨額の負債が表面化、1兆8,000億円もの
負債を抱えるリクルートグループ救済のために江副氏は1992年、ダイエーの創業者・中内 功氏に自らの持つリクルート
株を譲渡、同社の経営から退くこととなったのです。  江副氏は2013年、76歳でこの世を去りますが、江副氏が
創業したリクルートは2005年に1兆8,000億円の負債を完済したうえ、2014年には東証1部上場を果たしています。  
1980年代前半から90年代にかけて採用や就職の世界で生きてきた私は、江副氏にお会いしたことはありませんが
大勢のリクルートの人たちやリクルート出身者にお会いしてきました。江副氏への評価はさまざまですが、同氏が
創業したリクルートという会社がやる気と起業家精神あふれるたくさんの人たちを生み出したことには心から敬意を表します。 
経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥氏

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