太龍寺南舎心殿霊験記(S.S香川県大川郡、大正13年)
私は大正13年生まれで61才(当時)。青年時代肋膜炎を患い、どうにもならなくなり四国巡拝に旅立ちそこでお大師様に助けていただいた霊験を簡単にのべたい。
当時私は高野山中学に学んで居たが休学して故郷の豊岡市福祥寺に帰り、寝たり起きたりの療養生活を続けていた。寺は祖母に両親、兄弟8人という大家族だった。折から食料難の時代でもあった。父は「家族が多くおまえに十分な治療もしてやれない。ついてはうちのご本尊はお薬師さまだから大随求陀羅尼(オン・バラバラ・サンバラ・サンバラ・インダリヤ・ビシュダネイ・ウン・ウン・ロ・ロ・シャレイ・ソワカ)
というお経をおぼえて一生懸命おがんでほしい」といわれた。以来毎日ご本尊の前でこのお経をとなえることを日課とした。胸の病気が兄弟にうつつといけないので裏の長屋で一人住まいし、3度の食事も運んでもらっていた。24才の時兄の縁談が持ち上がったが寝たきりの弟が居るということではなしが壊れそうになった。兄だけではない、婚期をむかえた妹達もまだ居るのである。いたたまれない気持ちになった私は四国八十八所めぐりを始めた。
笈ずるを負い、地図1枚をもって阿波の一番から打ちはじめた。
病身のこととてゆっくりすすみ、やがて21番太龍寺ににぼった。ここはお大師様が求聞持法を修された霊跡である。心臓がくるしくて休み休みのばったので前の札所を朝でたのに21番についたのは昼過ぎだった。「すみませんが今晩お通夜させていただきたい」と納経所で頼んだが、「今は食料難で夜遅くきて降りることが出来ない人しか泊められない」という。
わたしは仕方なく本堂で大随求陀羅尼を拝み、大師堂にも参りおりようとすると、「こっちのほうが樂ですよ」と納経所で道をおしえてもらいその道をいくと、数人のお遍路さんが鈴を振って拝んでいる。
そちらへ行くと岩の上におどうがありそこはお大師様が求聞持法を修された南舎心嶽(注)だった。
「二十四にもなりながら家族の厄介になりながら生きているのなら早くあの世に引き取っていただきたい。でもなんとかいきてしごとがしたい。・・・それにしてもなんでこんな病気に罹りながく苦しまねばならないのか・・・」あれこれおもっているうちに耐えていた気持ちが堰を切ったようにこみあげてきて私は泣いた。あたりに人はいなくて私は一人で心ゆくまで泣いた。そうするとあつい涙とともに汚れや罪や悩みが洗い流され体がきよらかになっていく心地がした。そして誰かが私の体を抱きかかえてくれたような気がしたのである。・・・しばし陶然となっていた私がわれに帰りかけたとき私はその「声」を聞いた。左耳の後ろでそれはやさしい声を聞いた。それはお大師様のこえであったと私は今も信じている。・・・そうやって80日後に八十八所を打ち終えて家に帰り着いた。
かえってからは薄紙を剥ぐ様に私は元気になり、とうとう肋膜も治ってしまった。其れを見た檀家のひとが「お大師様のおかげはほんとうにあるものだ。こぼんちゃんの顔は土色になっていてとてもたすかるまいとおもっていたが、信心というものはありがたいものじゃな」と口々に喜んでくれた。
今思うに私は「鬼病」と「業病」をうけていたのではないか。「鬼病」は故人があの世で縁のある子孫に助けをもとめてよりすがるもので、「業病」は前世の自らの悪業の報いから来るものである。
あとからわかったのだがわたしがご本尊のまえでおとなえした大随求陀羅尼は地獄を破り業を消す陀羅尼だったのである。はからずもこのお経を札所札所のご宝前でよませていただきお大師様のお慈悲がいただけたのである。
注、私も平成21年秋にここで求聞持をさせていただいたとき、毎朝1時ころここの断崖に向かってせり出す岩の上で百回以上の五体投地をし、種々の呪をお唱えした覚えがあります。御大師様のお像も建てられており大変ありがたいところです。
私は大正13年生まれで61才(当時)。青年時代肋膜炎を患い、どうにもならなくなり四国巡拝に旅立ちそこでお大師様に助けていただいた霊験を簡単にのべたい。
当時私は高野山中学に学んで居たが休学して故郷の豊岡市福祥寺に帰り、寝たり起きたりの療養生活を続けていた。寺は祖母に両親、兄弟8人という大家族だった。折から食料難の時代でもあった。父は「家族が多くおまえに十分な治療もしてやれない。ついてはうちのご本尊はお薬師さまだから大随求陀羅尼(オン・バラバラ・サンバラ・サンバラ・インダリヤ・ビシュダネイ・ウン・ウン・ロ・ロ・シャレイ・ソワカ)
というお経をおぼえて一生懸命おがんでほしい」といわれた。以来毎日ご本尊の前でこのお経をとなえることを日課とした。胸の病気が兄弟にうつつといけないので裏の長屋で一人住まいし、3度の食事も運んでもらっていた。24才の時兄の縁談が持ち上がったが寝たきりの弟が居るということではなしが壊れそうになった。兄だけではない、婚期をむかえた妹達もまだ居るのである。いたたまれない気持ちになった私は四国八十八所めぐりを始めた。
笈ずるを負い、地図1枚をもって阿波の一番から打ちはじめた。
病身のこととてゆっくりすすみ、やがて21番太龍寺ににぼった。ここはお大師様が求聞持法を修された霊跡である。心臓がくるしくて休み休みのばったので前の札所を朝でたのに21番についたのは昼過ぎだった。「すみませんが今晩お通夜させていただきたい」と納経所で頼んだが、「今は食料難で夜遅くきて降りることが出来ない人しか泊められない」という。
わたしは仕方なく本堂で大随求陀羅尼を拝み、大師堂にも参りおりようとすると、「こっちのほうが樂ですよ」と納経所で道をおしえてもらいその道をいくと、数人のお遍路さんが鈴を振って拝んでいる。
そちらへ行くと岩の上におどうがありそこはお大師様が求聞持法を修された南舎心嶽(注)だった。
「二十四にもなりながら家族の厄介になりながら生きているのなら早くあの世に引き取っていただきたい。でもなんとかいきてしごとがしたい。・・・それにしてもなんでこんな病気に罹りながく苦しまねばならないのか・・・」あれこれおもっているうちに耐えていた気持ちが堰を切ったようにこみあげてきて私は泣いた。あたりに人はいなくて私は一人で心ゆくまで泣いた。そうするとあつい涙とともに汚れや罪や悩みが洗い流され体がきよらかになっていく心地がした。そして誰かが私の体を抱きかかえてくれたような気がしたのである。・・・しばし陶然となっていた私がわれに帰りかけたとき私はその「声」を聞いた。左耳の後ろでそれはやさしい声を聞いた。それはお大師様のこえであったと私は今も信じている。・・・そうやって80日後に八十八所を打ち終えて家に帰り着いた。
かえってからは薄紙を剥ぐ様に私は元気になり、とうとう肋膜も治ってしまった。其れを見た檀家のひとが「お大師様のおかげはほんとうにあるものだ。こぼんちゃんの顔は土色になっていてとてもたすかるまいとおもっていたが、信心というものはありがたいものじゃな」と口々に喜んでくれた。
今思うに私は「鬼病」と「業病」をうけていたのではないか。「鬼病」は故人があの世で縁のある子孫に助けをもとめてよりすがるもので、「業病」は前世の自らの悪業の報いから来るものである。
あとからわかったのだがわたしがご本尊のまえでおとなえした大随求陀羅尼は地獄を破り業を消す陀羅尼だったのである。はからずもこのお経を札所札所のご宝前でよませていただきお大師様のお慈悲がいただけたのである。
注、私も平成21年秋にここで求聞持をさせていただいたとき、毎朝1時ころここの断崖に向かってせり出す岩の上で百回以上の五体投地をし、種々の呪をお唱えした覚えがあります。御大師様のお像も建てられており大変ありがたいところです。