ウキペヂアによると「日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まった。原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したもので「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。Religionの語が最初に翻訳されたのは日米修好通商条約(1858年)においてであり、訳語には「宗旨」や「宗法」の語があてられた。「宗教」の語は1869年にドイツ北部連邦との間に交わされた修好通商条約第4条に記されていたReligionsübungの訳語に選ばれたことから定着したとされ、"宗教一般" の意味でもちいられるようになったのは、1884年(明治17年)に出版された辞書『改定増補哲学字彙』(井上哲次郎)に掲載されてからだともされている。『世界宗教事典』では、宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団であるとまとめている。
広辞苑では、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事、との定義を掲載した。」とかいてあります。
要は「人間の力を超えたもの」が宗教なわけです。そうすると「人間の力」とは何で、どこまで及んでいるのかが分かってなくてはなりません。しかし人間の力のどというものがそもそもあるのか?どうしてそれが「人間の力」といえるのか?を考えねばなりません。たとえば科学は人間の力というでしょうが、科学の定理は人間の力で作れているわけではありません。単に人間が定理を発見したに過ぎないだけです。人間はそういう現象・定理を見つけて組み合わせているにすぎません。こうして考えると人間の力と云うものはゼロです。従って「人間の力を超えたもの」は無限大です。つまり集合論的には「全体集合が宗教」ということになります。これを「宗教」ということばを発明して、なにか人間がその一段上から見下ろしているかのごとき錯覚に堕ちっている現代は、後世の歴史家からみればそうとう救いがたい時代だったということになるでしょう。
「宗教」とうことばは死語にすべきであると思います。これは思い上がった傲岸不遜な言葉です。
広辞苑では、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事、との定義を掲載した。」とかいてあります。
要は「人間の力を超えたもの」が宗教なわけです。そうすると「人間の力」とは何で、どこまで及んでいるのかが分かってなくてはなりません。しかし人間の力のどというものがそもそもあるのか?どうしてそれが「人間の力」といえるのか?を考えねばなりません。たとえば科学は人間の力というでしょうが、科学の定理は人間の力で作れているわけではありません。単に人間が定理を発見したに過ぎないだけです。人間はそういう現象・定理を見つけて組み合わせているにすぎません。こうして考えると人間の力と云うものはゼロです。従って「人間の力を超えたもの」は無限大です。つまり集合論的には「全体集合が宗教」ということになります。これを「宗教」ということばを発明して、なにか人間がその一段上から見下ろしているかのごとき錯覚に堕ちっている現代は、後世の歴史家からみればそうとう救いがたい時代だったということになるでしょう。
「宗教」とうことばは死語にすべきであると思います。これは思い上がった傲岸不遜な言葉です。