2回目は順番通り80番から81番へ歩きました。80番から6km弱です。しかし標高336mの白峰山への上り路は急坂の連続でした。途中白い岩肌が露出しています。
説明板があり「この白い岩肌は「ギョウカイカクレキ岩」といい1000万年前瀬戸内海地方の激しい火山活動により溶岩と火山岩が積もりできた岩石。なかにガーネットという宝石がある。」とのことでした。
白峰の名は残雪に由来するといいますがこの白い岩肌にも由来するかも知れないと思いました。
白峰寺手前の参道には摩尼輪塔があります。説明板に「修行の最高位を示す摩尼輪(中央の円盤)により名付けられた。元応3『1321』年密教僧金剛仏子宗明により建てられた。」とあります。
高野山奥之院の東北、約1キロメートルにも摩尼山があり、『高野山秘記』などには、お大師様によって「如意宝珠(にょいほうしゅ)」が山頂に埋められ、それを龍神が護っているとされています。「如意宝珠」とは我々衆生の願いをかなえてくれる宝の珠(たま)のことで、仏の徳をあらわしているといわれています。行法も定められています。私も21年の求聞持行のまえには室生寺の如意宝珠が埋まっているとされる精進が峯を拝んだり、伊勢の金剛証寺の雨寶童子(如意宝珠をもつ、大師作)を拝んだりしました。26年には如意宝珠の特別なご縁をいただくことになり、法縁のありがたさ不思議さに日夜自宅の如意宝珠を伏し拝んでおります。
先に述べましたが鈴木宋忠禅師という臨済宗の名僧の講演を相当以前によみうりホールで聞いたことがあります。
師は舞台にのぼると開口一番「みなさんご苦労さまです。ここから見るとみなさんは因果の博覧会ですな」とおっしゃいました。 不落因果と不昧因果ということばもあります。修業により因果をでられると思うのは迷い、因果と一体に成るのが悟りというおしえです。師は、「皆さんんも、因果を否定することはできませんよ、因果と一体に成ることが因果を抜け出る秘訣ですよ」とおっしゃっていたのでしょうが、我々は因果の博覧会の中でそれぞれ呻いています。四国遍路もこの悪因果から抜け出たとおもい来る人も多いのです。しかしその悪因はもともと前世で自ら作っていたものかもしれません。パスカルは「人間は信仰なくば自分は自分にとって怪物となる」といい、親鸞上人は「我が心のよくてころさぬにはあらず。さるべき業縁の催せばいかなるふるまいをもすべし。」とおっしゃいました。
人間という愚かな存在は過去世で数限りない業を作り出し、それを「因」としこの世で自分の「縁」に出あうことにより「果」を生じるのです。
◇
しかし現在の「苦」は自分の業の結果といっても、簡単にあきらめきれるものではありません。
さらにこの世は不条理なことばかりです。
説明板があり「この白い岩肌は「ギョウカイカクレキ岩」といい1000万年前瀬戸内海地方の激しい火山活動により溶岩と火山岩が積もりできた岩石。なかにガーネットという宝石がある。」とのことでした。
白峰の名は残雪に由来するといいますがこの白い岩肌にも由来するかも知れないと思いました。
白峰寺手前の参道には摩尼輪塔があります。説明板に「修行の最高位を示す摩尼輪(中央の円盤)により名付けられた。元応3『1321』年密教僧金剛仏子宗明により建てられた。」とあります。
高野山奥之院の東北、約1キロメートルにも摩尼山があり、『高野山秘記』などには、お大師様によって「如意宝珠(にょいほうしゅ)」が山頂に埋められ、それを龍神が護っているとされています。「如意宝珠」とは我々衆生の願いをかなえてくれる宝の珠(たま)のことで、仏の徳をあらわしているといわれています。行法も定められています。私も21年の求聞持行のまえには室生寺の如意宝珠が埋まっているとされる精進が峯を拝んだり、伊勢の金剛証寺の雨寶童子(如意宝珠をもつ、大師作)を拝んだりしました。26年には如意宝珠の特別なご縁をいただくことになり、法縁のありがたさ不思議さに日夜自宅の如意宝珠を伏し拝んでおります。
先に述べましたが鈴木宋忠禅師という臨済宗の名僧の講演を相当以前によみうりホールで聞いたことがあります。
師は舞台にのぼると開口一番「みなさんご苦労さまです。ここから見るとみなさんは因果の博覧会ですな」とおっしゃいました。 不落因果と不昧因果ということばもあります。修業により因果をでられると思うのは迷い、因果と一体に成るのが悟りというおしえです。師は、「皆さんんも、因果を否定することはできませんよ、因果と一体に成ることが因果を抜け出る秘訣ですよ」とおっしゃっていたのでしょうが、我々は因果の博覧会の中でそれぞれ呻いています。四国遍路もこの悪因果から抜け出たとおもい来る人も多いのです。しかしその悪因はもともと前世で自ら作っていたものかもしれません。パスカルは「人間は信仰なくば自分は自分にとって怪物となる」といい、親鸞上人は「我が心のよくてころさぬにはあらず。さるべき業縁の催せばいかなるふるまいをもすべし。」とおっしゃいました。
人間という愚かな存在は過去世で数限りない業を作り出し、それを「因」としこの世で自分の「縁」に出あうことにより「果」を生じるのです。
◇
しかし現在の「苦」は自分の業の結果といっても、簡単にあきらめきれるものではありません。
さらにこの世は不条理なことばかりです。