今日は知恩院で御忌です。
http://www.e-kyoto.net/kankou/4/18
法然上人 は、 建暦 2年(1212)1月25日、御歳80歳、京都・東山の吉水、現在の総本山知恩院の地でお亡くなりになられました。そのご命日に、上人のご 遺徳 を 偲 び、ご遺訓の『一枚起請文』(注)を声高らかに拝読し、営まれる 法会 を 御忌会 と言います。知恩院では古来、1月25日に御忌が勤められてきましたが、明治10年から4月に変更され、今日では1月25日のご命日法要に加え4月18日から御忌を営んでいます。
(注、「『一枚起請文』「もろこし我が朝にもろもろの知者の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ極楽往生のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の子細そうらわず。但、三心四修と申す事のそうろうは 皆、決定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内にこもりそうろうなり。このほかに奥深きことを存ぜば二尊のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし。念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらにおなじゅうして、知者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。両手の印をもってあかしとなす。建歴二年正月二十三日
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存このほかにまったく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しおわんぬ。」)
また、法然上人「百四十五箇条問答」には色色考えさせられるお言葉があります。
たとえば 以下のような問答など今の人に聞かせたいような内容です。
「一。申候事のかなひ候はぬに、仏をうらみ候、いかが候。(仏様に願をかけても叶わない時仏様を恨み申し上げることがありますが、いいのでしょうか?)
答。うらむべからず、縁により信のありなしによりて利生はあり、この世、のちの世、仏をたのむにはしかず。 (願いが叶わぬからと言って仏様を恨んではなりません。縁のあるなし、信心のあるなしによって霊験の有無が決まります。我々はこの世でもあの世でも仏様を頼るしかないのです。)
一。仏をうらむる事は、あるまじき事にて候な。(仏様を恨んではいけないのですね?)
答。いかさまにも、仏をうらむる事なかれ。信ある物は大罪すら滅す、信なき物は小罪だにも滅せず、わが信のなき事をはづべし。(そうです仏様を恨んではいけないのです。信心のある人は大罪でも消えます。信心のない人は小罪でも消えません。)」