「弘法大師近世の霊験」明治41年12月31日 鉄塔堂発行、佐伯曼荼羅著
「序文・・本書は因島大浜村吉田幸七の次女芳江が姉お増のいく四国巡拝に同行したいと申し出たが父が許さず、ほどなくして芳江は死すがその五七日の法要中吉田家の玄関に旅僧が一緒に四国巡拝をしたという芳江を連れてきた。さきに葬式をした亡骸は四国七十七番道隆寺の大師が身代わりとなってくださったものであった、という話である。・・鉄塔堂主人」
一、比翼の契り浅からず、孝女宿縁ひらく
因島というところがある、五箇村の島で中でも人家の多いのが大浜村である。そこに吉田氏という金満家があった。嘉永年代、主人の幸七は尾道より高橋千代を娶り仲睦まじく1男2女をもうけた。姉は阿増、妹は芳江といった。母がこの芳江を懐妊するとき以前より信仰していた讃岐道隆寺の弘法大師より一茎の未開蓮華を賜った夢をみたのであった。芳江は容貌も美しく、書道、茶道、華道、裁縫、琴三味線全てにすぐれており、立ち居振る舞いも気品に満ちていた。利発にして親切、父母への孝心も深く、神仏への信仰特に御大師様への信仰も篤かった。毎朝朝食前には仏間にて懺悔文(我昔所造諸悪業、 皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、 一切我今皆懺悔)、発菩提心真言(おんぼうじしったぼだはだやみ)、三昧耶戒(おんさんまやさとばん)心経3巻、光明真言21辺、大師宝号108辺をお唱えするのが日課であった。そして一度は四国八八所を巡拝したいと願っていた。
そういう折も折、十八になる姉の阿増がこの地方の慣わしに従い、いよいよ四国巡拝をすることになった。芳江は父幸七に是非阿増に同行させてくれるようにたのむが父は「一度に出られては家がさみしい。やっと芳江は十一歳になったばかりなのだから、来春にでも年寄りの巡拝団に入れてやるのでそれまでは絶対だめだ。」と取り合わなかった。
二、無常の理を観念し窃かに巡拝を決心
四国巡礼反対の父に再度お許しを願うと父は怒ることは明白である。すると母にまで迷惑がかかることとなる。こうして父母を悩ませることは大変な親不孝になる。
しかし先日檀那寺のご住職の法話に「人の命は限りあり、世の草々は限りなし。限りある身を持ちながら、限りなき浮世の事に屈執するは実に危うき極みである。『哀れなり たとえば思ふ あらましを 叶ふたりとて 幾何の世ぞ』とは明恵上人の歌である。『明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』という歌もある(「親鸞聖人絵詞伝」)。生まれてから死ぬまでを扱う儒教では親のいいつけを聞かぬものは不孝とされる。しかし儒教の教えのエッセンスを体得している堯・舜・周孔のような人でも他生の父を救えてない。顔回孟軻のような人でも前世の母を助けることができなかった。しかし、お釈迦様の弟子、目連尊者は母の餓鬼道に落ちているところを救った。こういうことを考えると今しばしの間不孝といわれようと今お四国参りをして功徳を積み将来浄土に生まれることができればその時父母を導けばよいと思われる。お釈迦様も父母を置いて出家されたではないか。芳江はこう考えると決心し、父孝七のいる居間に向かって合掌して「しばしお暇たまはるべし」といい、母にも「朝夕寂しく思はれるでしょうがお許しを」と拝んだ。
因島は昔から男女とも一生に一度は必ず四国巡拝をすることになっている。特に女性は嫁入りの資格とされてきた。仲人は十七,八の娘をみればまず真っ先ににお四国参りをしたかどうかを近隣で確認することになっていた。吉田家の姉娘お増は十八歳の春であるので最早猶予はない。他家の娘や、両親の菩提をともらう人達等十四人とともに金剛杖、草鞋をつけ、笠には「迷うが故に三界は城、悟が故に十方は空、本来東西なし、何れのところにか南北あらん」と書き、胸の札ばさみには「奉納四国八八所同行二人」と書き、白い手甲脚絆を付けて数珠を持ち、大浜村顕性寺にお参りし、年の若い順にご本尊に焼香し、ご法楽をあげ、一同「ありがたや高野の山の岩陰に大師はいまもおわしますなる」と御詠歌を唱えつつ港に着いた。港には精進丸という船が待っていた。因島には巡礼団を乗せる船が二艘ある。一は光明丸といい、帆に光明真言がかいてある。もう一艘はこの金剛丸といい、これは大師宝号を帆に染め抜いている。この船に巡礼の一同が乗り込み、いよいよ出帆した。
燧灘にきたころ船頭がふと船底を上げてみるとそこにはいるはずのない吉田家の二女、芳江がいるではないか。
船底にかくれていて船頭に見つかった芳江は船頭に秘かに他の四国巡拝団と共に四国まで乗せていくように他のむが船頭は「聞けば檀那様にお四国参りをお願いになったが檀那様はまだ子供だからとお許しなされなかったとのこと、檀那様の方が理に適っております。それを五十年來吉田家に仕えてきた私がお乗せて渡しては義理がたちませぬ。」と押し問答。そこへ姉のお増がきて「まあまあ驚いた、芳江さん、そのようななりで父上の仰せに背きこんなところに来てはいけません。いかにお四国参りがしたいとても親に背いてはなりませぬ。」いうと船中一同もっともと納得し、もう一度因島へ引き返し、芳江を港の桟橋へ置いて再度船頭は船を出した。
三、勇猛また励精、信力金剛の如し
吉田家に連れ戻された芳江は正体を失うほど気落ちしていた。出入りの大工彫作の妻は芳江に「お嬢様けっして気落ちめされるな。四国遍路は来春にのばしても決して遅くはございません。私なども十五のときに四国遍路をしましたがこの島でも十五よりはやく遍路をしたものはいまでもございません。お嬢様は十二歳でいらっしゃいますから来年十三歳まで伸ばしてもけっして遅くはございません。来春はうちの小松もご同行させていただきたく思っております。」等と慰める。隣近所の女房共も口々に慰めるので芳江はきまり悪くなり、内佛の前で看経を始めた。その和讃には「・・菩提を得るはやすけれど、真言秘密に逢うことの得難きものをこのたびといふこのたびはいつの世の、如何なる因縁果報をも、正像末の隔てなく、出離解脱の時を得て、他力の方便すぐれたる、神呪となふるありがたさ、かくも貴き勝妙の、みおしえ開かせたまひたる、高祖大氏のご恩徳、譬えを取るに物もなし、仰げばいよよ高野山、むすぶえにしの蔦蔓、すがりて登るうれしさよ、ことにみるめもあさましき、業病難病受けし身は、八十八の遺跡に、よせて利益をなしたまふ・・(弘法大師和讃)」とある。芳江も「自分はせっかくの四国巡礼の願いもかなわずこうして家に帰された、どうぞ御大師様ここに来臨影向されてこの願いを聞き届けてくださいませ、そして四国遍路ができて浄土へ生まれることができたならば、娑婆世界に帰ってきて七世の父母を救い有縁無縁を再度しとうございます。」と願い光明真言をまた唱えるのであった。
侍女の阿福は芳江に夕食を用意したが芳江は今は内佛の間に閉じこもり、食事は取りたくないと断った。母の阿千代は次の間にお膳を用意して床に就いた。
四、孝女仏前に死し、父母腸を寸断す。
母阿千代は夜中に芳江はちゃんと寝たかと不安になり内佛へいってみると手足は冷え顔は青ざめて倒れている。驚いて主人の幸七や番頭手代を呼び大騒ぎすれどもなすすべもない。親類縁者に慰められて夫婦は檀那寺顕性寺の先祖代々の墓地になくなく芳江を葬り、七日七日の追福をつとめていったが、五七、三十五日目は三月二十一日の御大師様の日に中った。夫婦は尾道西国寺の慈明和尚に導師を頼み二十五人の伴僧、島中の人々を招待し芳江の追福菩提のために盛大な法要を営んだ。時に元治改元(1864)甲子三月二十一日であった。
五、異僧門頭に到り、家主賓命に驚く
芳江の五七三十五日の追善供養に集僧をまねいて光明真言供をつとめているその真っ最中に門に異僧が立った。麻の衣に麻の袈裟、草鞋脚絆に網代笠、右手に錫杖をついた異僧が一人の子供の手を引いて「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静。おんあぼきゃべいろしゃのおまか ぼだらまに はんどまじんばら はらばりたや うん。・・」と唱え、さらに旅僧は「この家の御主人幸七殿にお会いしたい」という。応対に出た女中の阿舌は今日は取り込み中で主人に遇わせるわけにはいかないと断っていると、主人の幸七がそれを聞きつけその旅僧の気高さに玄関先に出てきた。『拙者が主人の幸七でございます。なにか拙者に御用の趣とか。承わります。」というと,旅僧は「御身がご主人の幸七殿か、お子さんの芳江をたしかにお返ししますよ。さあ対面なされよ」といいつつ子に被せていた編み笠を取るとそこには思いもかけぬ我が子芳江が佇んでいた。芳江は恭しく首を傾げ両手をげんかんの框にかけて
「父上、しばしの不孝許してくださいませ。私はこの旅僧のお蔭にて無事にお四国を巡拝し多生にわたる念願を成就できました。今日のお坊様、父母の御恩を未来際を尽くすまでわすれることはありません。」という。
六、審さに巡拝の事を聞き、四国概略を挙ぐ
芳江の言によるとこうである「いままでのいきさつをお話しいたします。私は四国遍路にいけないので一人内佛の間に閉じこもって一心不乱にお四国参りをお祈りしておりますと、夢かうつつか香ばしい香りがしたので振り向いてみますと一人のお坊様がおたちでした。おもわず一礼しますとそのお坊様は『汝が日頃の信心は諸仏の心と冥合す。汝が身口意は御仏の身口意に合致したので本尊が汝の身に入り、汝も亦本尊の身に入るなり。仏の三密と汝の三密は合致したり(密教観法の入我我入観そのもの)。汝が四国巡礼をして八十億劫の罪障を消滅したしとの願いをかなえる時期は到来せり。両眼を閉じてこの錫杖に縋れ。』とおっやいました。その通りにいたしますと、不思議なことにこの身はお坊様もろともに虚空を飛んで行くのでございます。しばらくしてお坊様が錫杖から手を放してよいとおっしゃるので恐る恐る手を放してあたりを見回すと立派な伽藍があります。お坊様は『ここは四国七七番道隆寺である。自分はあの大師堂に住むものである』とおっしゃり傍らの大師堂をお指しになりました。それからは85番八栗、84番八島、88番大窪寺、戻って一番霊山寺、土佐の立江寺19番、27番神峰の飛び石ごろごろ石、31番五台山、34番種間寺、足摺岬のくわずいも、41番稲荷、45番岩谷寺、51番石手寺、61番香園寺、55番一之宮、64番前神寺、65番三角寺、69番観音寺、70番本山寺、71番弥谷寺、72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺と捨身岳と筆の山、我拝師山、74番甲山寺、75番善通寺誕生院、ここには尊氏、法然上人等の逆修塔があり、親鸞も自刻の像を留め、西行も木を植え、歌を詠んでいます。(「山家集」には「大師の生まれさせ給たる所とて、めぐりのし廻して、その徴に松の立てりけるを見て
「あはれなりおなじ野山に立てる木のかかる徴の契りありける」)
また入唐の折大師が母君にのこされた自画像瞬目大師は善通寺第一の霊宝です。なお七宝といって、一粒五色の仏舎利、一字一佛法華経、泥土多宝塔、二五条袈裟、印金、金紫銅の鉢、水瓶、閻浮檀金の錫杖、があります。象頭山金毘羅大権現詣でたときには姉の四国参りの一向を見たがお坊様より声をかけることを止められてそのままやり過ごしました。次に七六番の金蔵寺につき今回のおまいりはここで打ち止めとお坊様はお告げになりました。そして再度めをつぶり錫杖につかまっていると家についたような次第です。」
芳江は旅僧の錫杖につかまり巡拝した四国八十八所の寺寺の事を詳細に語った。主人の幸七はやがて「そういえば芳江を連れてきてくださった旅僧の方はどこに}と見渡すがいつのまにか僧は消えている。使用人の善八に銘じて旅僧を探させたところ善八は息を切らせて帰ってきた。「檀那の仰せに従い旅僧のお方を探しつつ蔵の裏手よりお寺の門の一本松のところへのぼり下の浜を見下ろすと旅僧の方は砂地を歩いていくのが見えたのでいそいで走って後を追いかけましたがいくら走っても追いつきません。そのうち旅僧の方は海の上を歩いているうちに空から美しい雲がおりてきてそこから金色の光がさしたと見る間に見えなくなってしまいました」と報告した。
七、高僧疑暗を諭し、外道ついに帰正す
主人幸七の弟義右衛門は儒学者のためこの話を狐に誑かされているとみて芳江にとりついた狐を掴み出すと称して芳江を庭石に投げつけようとするのをみなで押しとどめていたところ、五七三十五回忌のため光明真言供をお願いしていた導師慈明尊者が出てきて「主人の幸七殿が霊験不思議と信ずるは宿善開発の時節にあいたるがゆえなり。弟義右衛門殿が信ぜぬは時期の熟せぬによるのみ。智愚、学問の有無によるものではない。ただ過去世の因縁によるものである。義右衛門殿の不振もっともなればこれより芳江殿の墓にいきどうなっているかみればよかろう。」とおっしゃり、一同墓にいってみることにした。今から三五日前に顕性寺の裏手に作った墓にきて、一同墓石と土をとり縄をかけた棺の蓋を取ると、たちまち一筋の光明が走った。中には大師の木像が安置されてあった。それをみて僧俗一同額を土にすりつけて拝んだ。不信心者の義右衛門も恭しく墓から大師尊像を持ち上げて傍らの墓石に置き奉りよく見ると、尊号の御裾のあたりに四国七十七番讃州多度郡道隆寺と書いてあった。これを見た義右衛門の妻千代は一入驚いた。去る天保年代のご遠忌にこの千代は悪人に誘拐されが七十七番道隆寺で助けられたことがあったことを思いだしたのである。
儒学者義右衛門は深く不信心の自己を反省しみずから慈明尊者の弟子となり後に切幡寺、足摺岬、善通寺等の修繕に力を尽くした。
主人公の芳江は後に河野静夫氏の室となり勧善社なる教会組織を作り、明治十七年春大師千五百年ご遠忌に三百余人を率いて高野山等へ参詣し種々の霊験を受け広島県令より賞状を受けている。
結論 古今霊瑞多し、疑うなかれ
いつの世でも、いずれのところでも人間わざのほかに、不思議は多い。不思議というはその実不思議ではないのだが、幼稚で未熟なる間、低級な心にとどまっている間は高等な世界の事は分らぬ。故に神武帝東征の道案内をしたという金鴉(『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。)、日本武尊が死後姿を変えた白鳥、日清戦争大勝利の時高千穂艦に降り立ち後に陛下にまで生きたまま献上された鷹、日露戦争初めに箱崎宮の現れた鳩等昔も今も瑞相は現れている。これらは神仏のお示しであるのでかしこみかしこみて有難くおうけしなくてはならぬものである。
「弘法大師近世の霊験」終