観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・20/27
四、十九説法の事。
現身が丗三身ならば同じく説法も丗三なるべし。何ぞ十九の説法を挙るやと云に、經文には略して餘多の身を一處に挙げて其の下に一の説法を挙なり。故に經文に「而為説法」と云處十九ある故に十九説法と云なり。實には現身の如き説法の説法もあるべきなり。十九説法の相皃(相貌)の事。佛身を現じては阿耨菩提の法を説き、又佛身を現じては十二因縁を説き、聲聞を現じては四諦の法を説き、梵王の時は離欲清浄の法を説き、帝釈身の時は十善を説き、自在大自在の時は自在三昧を説き、将軍身の時は救護衆生の法を説くなり。毘沙門の時は治世の護法を説くなり。小王は五常の法、長者は尊敬の法、居士は清浄の法にして止悪修善の法なり。宰官の時は正理を教て邪を退く精聞の法也。或は又文武二道を教ふなり。四衆と現じては具足戒行の法を説き、四婦女の時は内助身を納る法也。童男童女の時は愛養の説法なり。八部衆の時は随機求道の法なり。別して云時は龍は降雨の法、夜叉は伏龍の法、乾闥婆は妓楽歌詠、阿修羅は軍陣の法、執金剛神は護国護法の法を説く也。
観音は依報の草木とも現じ衆生を利益し玉ふやと云に現じ玉ふべしと云ふ。観音三昧經(偽經)の中に観音を信ずる人の前に現し玉ふに付いて七日の間、種々の身を現じ玉ふ相を説くなり。初日には栴檀と成りて異香を薫じ、二日光明と成りて其の人を照らし、三日には蓮華と現じ、四日には天人と成りて其の人を供養し、五日には三昧と成りて其の人の身中に入り過現当来の三世の事を知らしむ。六日には菩薩の身と成り其の人の頭を摩で、七日には正しく観音と現じ玉ふなり。故に依報正報と成りて衆生を利益し玉ふ相を明かす事分明なり。
「無盡意。是觀世音菩薩。成就如是功徳。以種種形遊諸國土度脱衆生。」此の一段の文は総答なり。就中「成就如是功徳」と云は結前生後也。さて「以種種形」と云は十界の身を現ずと釋せり。意は観音の現身は丗三身に限るやと云不審すべき故に、佛是を顧みて「以種種形」とは説き玉ふなり。されば無量の身をも現じ玉ふべきなり。其の無量身とは十界の現身には過ぎざるなり。さて「遊諸國土度脱」とふは此の観音の利益の相をば娑婆施無畏者と云故に娑婆に限るべきかと云不審あるべき故に佛是を買えりみて「遊諸國土」と説き玉ふなり。されば天台是を横に十方、竪に三世と釋し玉へり。
「是故汝等。應當一心供養觀世音菩薩。是觀世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中能施無畏。是故此娑婆世界。皆號之爲施無畏者。」此の文は供養を勧める相なり。此の中「能施無畏」とは観音娑婆世界に於いて七難三毒等諸の怖畏悪難などを輔除せしめ玉ふ故に施無畏の大士と云ふ也。さて實義の時は観音は妙法同躰の菩薩也。而るに妙法とは色身常住の悟りなる故に生死の色身は本有の妙境妙智也。故に遍照法界と開く時は法界の中に於いて無畏も無障も施無畏と云也。
「無盡意菩薩白佛言。世尊。我今當供養觀世音菩薩。即解頸衆寶珠瓔珞。價直百千兩金。而以與之。作是言。仁者。受此法施珍寶瓔珞」此の文は受旨なり。此の下に六あり。初めの三行は無盡意菩薩如来の勅命に任せて頸に掛けたる瓔珞を解て両の手に捧げて跪いて観音に参らせて供養を申さるる相也。さて「價直百千両金」とは百千両の金僅かの事なり。無盡意菩薩は既に等覚無垢の菩薩なれば頸に掛け玉ふところの瓔珞は價も無量なるべし。何ぞ百千両金と云やと云に百千といふは十万也。所表に約せば時は十地佛果也。配立の時は十地の前後に位を置かざるなり。而るに十地に各の一万の功徳あれば十万なり。之を表して百千とは説き玉ふ也。一義に云く、百とは百界、千とは千如なり。諸法は無邊無盡也といへども百界千如を出ざる也。故に百千両金といふなり。則ち無量無邊の價なる事を顕はすなり。
次に仁者受此法施の事、施に於いて二あり。財施・法施なり。財施に又三あり。謂る身・命・財なり。而るに金銀米錢等を施すは下品の布施也。身施は
中品也。命施は上品施也。又法施に四あり。一には如法の法施是を在家出家まで如法に振舞を法施と云也。在家は五常を正しく礼儀を背かずを如法と云也。出家は戒行堅固智道勇あるを如法と云也。此の如く振舞ば自ら佛神三宝の内証に叶ふ故に法施と云なり。二には重法施とは法を尊重するを云なり。三には求法施といふは佛法を求るを云也。四には學法施と云は佛法を学ぶを云なり。此れ等は皆神明佛陀の内証に叶ふなり。故に法施と云なり。然るに無盡意菩薩瓔珞を観音に施し玉ふ事は、瓔珞は世間の珍宝なれば財施なり。何ぞ仁者此の法施を受玉ふやといふに、是は無盡意菩薩の内証の悟を顕して此の如く云也。其の故は法華の悟り開きて見れば一色一香無非中道なれば財施は則ち法施なり。去れば天台の釋は真則是俗、俗則是真如如意宝珠なりと。去るに依りて無盡意は此の意を顕して瓔珞財施を施すを法施とはいふなり。総じて常に施物を受る時も財施法施差別無し。檀波羅蜜具足円満と観ずべき也。一色一香無非中道の心に住すれば能施所施共に功徳廣大也。
「時観世音菩薩不肯受之」不受也。此れを受るに付き心多く之在る也。両巻の疏の趣は観音の思召す様は、無盡意菩薩に其の瓔珞を観音に施せと佛の仰せをこうむる故に施し玉ふ也。されども我には何も佛の仰せられざる故に斟酌し玉ふ故を釋し玉ふなり。安居院澄憲法印の釋の趣は佛を供養し給は釈尊にも又は多寶佛にも参ずべき左様にはなって我に施し玉ふ事一の斟酌也。又地涌千界の本地の菩薩は二万八千の菩薩大士等皆同位等の菩薩各各御座ます前にて無盡意菩薩の瓔珞を跪き両手に捧げ玉ふ處を我利運を請取べき事又斟酌也。又無盡意菩薩不眴世界より遥かに此に来たり玉へば我社物を奉るべきを還って瓔珞を給はる事謂ざる事杏里、と思召して請取玉はざる也。法門に約する時は不差三昧なり。
「無盡意復白觀世音菩薩言。仁者。愍我等故受此瓔珞 爾時佛告觀世音菩薩。當愍此無盡意菩薩及四衆天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽人非人等故。受是瓔珞。即時觀世音菩薩愍諸四衆及於天龍人非人等。受其瓔珞。分作二分。一分奉釋迦牟尼佛。一分奉多寶佛塔。無盡意。觀世音菩薩。有如是自在神力。遊於娑婆世界。爾時無盡意菩薩。以偈問曰」。「無盡意復白」より下一行餘は重奉なり。次に「爾時佛告」より下産業佛勧也。佛観音に対して仰せらるる様は無盡意の懇志と云ひ又は四衆八部等も此の瓔珞を請取給へかしと思故に唯請取玉へと仰せらるるなり。是即ち佛の口入也。次「」に「即時観音」より下二行餘は観音此の瓔珞を受て、我は是を受用せずして二に分けて釈迦多寶佛に奉玉ふなり。
上件の義を法門に約して心得る時先ず佛観音を供養せよと勧め玉ふはいかなる故ぞといふに一切の如来の大慈悲皆一体の観世音に集まるなれば一切の諸佛の慈悲を集めて観音一菩薩の是を具足し玉也。さて成佛得道の為には慈悲が肝要なり。之に依りて一切衆生は観音の慈悲に帰して成仏得道せよと云心にて、佛は観音を供養せよとすすめ玉ふなり。次に無盡意菩薩如来の仰せに随って頸に掛けたる瓔珞を解いて観音に献らる。其の瓔珞の相をば價百千両の金に値ふと説くなり。是則ち十界十如是互具すれば百界千如一念の悟り難解難入なる事を顕し玉ふなり。
次に佛観音に対して、無盡意菩薩及び四衆等を愍み玉ふゆへに其の瓔珞を請取玉へと口入れと口入し玉ふ事は無盡意菩薩は四衆八部等の一會の衆の総代なる故に此の瓔珞を観音に献じ玉ふゆへなり。されば無盡意の供養は十界同時の供養と習也。次に観音此の瓔珞を請取二分して釈迦多宝に献ぜらることは、釈迦多宝は境智の二佛なり。仍って四衆八部等の色心が本有の境智と顕るる事を表して二分して釈迦多宝に献らるなり。無盡意の瓔珞を直には釈迦多宝に献ぜずして先ず観音に献じぬれば観音是を請取て又釈迦多宝の二佛に献玉ふ。子細は何事ぞといふに、一切衆生に慈悲心より取り寄せて本有の境智を顕す相也。