第五二課 成功
人から、成功と見られて自分ではそれほどと感じない成功があります。
また、人から失敗と見られて、自分では成功と思っている成功があります。
また、人も自分もともに許す成功があります。
人が成功と思ってくれるのを、いくら自分は不満足だとて、にべもない顔をしているのは、あまりに人間味がありません。愛想にも多少は悦んでいいでしょう。
自分に真に成功した確信あらば、あまり人の批評は気にならないものです。
しかし、すべてを超越して真の成功の定まるのは、それだけの価値ねうちのものが、それだけの価値を現したときです。これ以上のときでも、以下のときでもありません。
私たちがここに五十銭銀貨を使うとします。その五十銭を五十銭相当に使い得たとき、私たちはただ満足を感じます。しかし、その以下に使ったとき、あるいはその以上として使ったとき、何だかねばった気持ちが心に残ります。
「五十銭を五十銭以下に使ったときは、惜しい、つまらぬことをしたというのでねばった気持ちもしよう。だが、五十銭を五十銭以上に使ったとき、愉快で得をした気持ちはするだろうが、何もねばるものはあるまい」。こう言われる人もありましょう。だが、やっぱり心の奥にはかすかな圧迫があって、その五十銭行使を実力でなく、投機使する気持ちを湧かすのであります。もしそう意識しないとしても潜在意識において。
本当の満足は、自分の実力を実力だけ出し切れたところにあります。それ以上でも、それ以下でもありません。そのとき私たちは、ただ敬虔で真空な心持ちに充されます。心が八方へ浸み通るような真空な気持ちです。
こういう場合には、案外、出来た仕事の成績は気にならないものです。その成績が人に認められて成功しようが、人に認められずして失敗しようが。牝鶏めんどりが卵を生んだあとの気持ち。まあ、そんなことも言えましょう。
ものが実力以上に出来過ぎたとき、さあ、この期を外はずさず人に見せて喝采を博したい。こうも焦慮あせります。ものが実力以下に出来たとき、さあ不安で堪らない。何とか人によく見て取って貰って、この自分の気持ちを取りなしたい。やっぱり焦慮ります。
実力を養っては、実力だけずつ充分に表現して行く。その実力は大であれ、小であれ、その人の力一杯だけを表現して行く。ここに人間にとって最も充実した人生があります。実はそれだけで辛苦努力の報むくいは酬われているのです。あとは雨降らば降れ、風吹かば吹けです。だが、そうなると却って形の上の成功も案外伴って来るものです。誰でしたか成功を地上の自分の影に譬えた人がありました。「影を踏もうと追い駆ければ駆けるほど踏めない。しかし静かに立っていれば却って影は身近くある」。この諺で、「静かに立っている」ということは何もしないでただ黙って立っていることではありませんでしょう。刻々、実力の養成とその適切な表現、これを繰り返しつつ静かに立っていることでしょう。
私たちには、十重とえ八十重はたえの因、縁、果の紐が結びつけられていまして、成功を目標にして努力しても、案外早く酬いられる人もあり、随分遅く酬いられる人もあります。これを運命と言っておりまして、中には生存中酬いられずじまいの人も往々見るのであります。いわゆる不遇の人です。真に気の毒と思います。
故に成功を目標にして努力することは、現象的には投機性を帯びたように見えやすいのです。そのつもりでかからねばなりません。しかし、自分の価値ねうちの行使を目的として、刻々に努力したならば、その場その場に心に酬いられて来て狂いがありません。いつも静かな感謝と満足に充たされるのであります。
こんなことを言うのは、何も成功を必死に望んでいる人々をくさらせようとするための嫌味でも皮肉でも、また、道学じみた教訓でもありません。お望みの方は、将来の成功のために努力なさるのは、一向差支えないことであります。そして、もし成功された後、これらの言葉を顧みられたら、またひとしお感慨深いものがあるだろうと思います。
(「努力しても報われない」「なぜ悪人が成功していい人が成功できないのか、世の中不公平だ」「こういう不条理が起きるということは神仏が存在しない、因果の法則もないということだ」等とは殆ど誰もが抱いたことのある不満です。司馬遷は「天道是か非か」といい、バルザックは「神は鼠をなぶる猫の様にわしらをからかっている。」(贋金つかい)といいました。古今東西運命への不満、因果の法則への不信は共通しています。では司馬遷やバルザックのいうように因果はないのでしょうか?倶舎論には「現世で報いを受ける業、次の生で報いを受ける業、次の次の生で受けるもの、時期不定であるがいつか報いを受ける業の四種がある」と云っています。また因果を否定するのは「断見」といい十善戒の「邪見」の最たるものとされます。華厳経等で強く戒める所でもあります。我々はお経を信じるしかありません。)