観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・12/15
十二、楠木正成観音の御利益を蒙る事。
楠木多門兵衛正成は敏達天皇四代の孫、井出の左大臣橘諸兄公(敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明皇后は異父妹。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣)の後胤たりと雖も民間に下って年久し。其の母若かりし時、信貴山の毘沙門に百日詣て夢想を感じて設けたる子なれば多門兵衛とは申す也。後醍醐天皇の勅を承って河内國に帰り石川郡赤坂に俄かに城を構へて五百餘騎にて楯籠る、然るに笠置の城落ちたりければ関八州の軍勢三十万騎、我も我もと赤坂の城に寄せ来たり。城の消息を見遣れば、俄かにこしらへたりと覚へてはかばかしく堀も掘らで、俄かに屏一重塗て方二町には過ぎしと覚へたる。其の中に櫓二三十が程、掻き雙べたり。是を見る人ごとにあな哀れの敵のありさまや此城我等が片手に載せて投るとも抛つべし、あはれせめて如何なる不思議にも楠が一日堪へよかし、分捕り高名して恩賞に預からんと思はぬ者こそなかりけれ。されども楠、籌りごとを帷幄の中に運らし勝事を千里の外に決する名将なれば、城強くして寄手討たるる者日々に五百人七百人にて幾度攻めれども城落ちざりければ、いやいや此の城力攻めにはなるべからず、食攻めにせよとてひたすら軍を止めて己が陣々に櫓をかき逆木を引いて遠攻めにこそしたりけれ。楠、此の城を構へたる事暫時の事なれば、はかばかしく兵糧の用意もなく、二十餘日の間に兵糧尽きて大に苦しめり。依りて策を以て城中に大きなる穴を二丈ばかり掘て此の間堀の中にて多く討ちて臥したる死人を二三十人穴の中に取り入れて其の上に炭薪を積で風雨の夜を待つ處に正成が運や天命に叶ひけん、雨風俄かに起こって敵の陣々にも皆帷幄を垂る。是を待つ所の夜なりけると、城中に人を一人残し留めて我等落延びんこと四五町にも成りぬらんと思はんずる時、城に矢を掛けよと言置きて皆物具を脱ぎ、寄せ手に紛れて五人三人別々になり敵の役所の前軍勢の枕の上を越て閑々と落ちけり。正成、長崎四郎左衛門(鎌倉時代の武将。元弘元年幕府軍の侍大将として笠置山や赤坂城の攻撃にくわわる。元弘3年千早城包囲中に幕府が滅亡し出家。其の後捕らえられ処刑)が厩の前を通りける時、敵是を見著けて、何者なれば御所の前を案内もなく忍びやかに通るぞと咎めければ、正成、是は大将の御内の者にて候か道を踏み違へて候ひけると云捨て足早に通りける。咎めつる者さればこそ怪しき者なれ、如何様馬盗人と覚へたるぞ、只射殺せとて近近と走り寄りて真直中をぞ射たりける。其の矢正成が臂の懸に答へてしたたかに立ぬと覚へけるが、すはだなる身に少しも立たずして筈を返して飛翻る。後に其の矢の疵を見れば、正成が年来信じ読奉る観音経を入れたる膚の守に矢中って一心称名の二句の文に矢さき留まりけるこそ不思議なれ。正成必死の鏃に死を遁れ二十餘町(2キロ餘)を落ち延びて跡を顧みければ約束に違はず早城の役所共に火を懸けたり。寄せ手の軍勢火に驚てすはや城落ちけるとて勝時を作って、あますなもらすなと騒ぎ動ず。焼け静まりて後城中を見れば大なる穴の中、炭を積んで焼死たる死体多し。皆是を見て、あな哀れや正成はや自害してけり、敵ながらも弓矢取って尋常に死したる者哉と誉めぬ人こそなかりけれ。されども楠木は千早城に引き籠り再び義兵を挙げて帝を位に還しつけ奉り、遂に摂河両國の太守となりける。智仁勇の三徳を具したる古今無双の名将なれども若し観音の擁護なくんば危うかりける命なり。守護(おまもり)は誰も掛け奉るべきものなり。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjw9ePO06qIAxW-r1YBHV7VCcoQFnoECB0QAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.city.kawachinagano.lg.jp%2Fsite%2Fnankosan%2F49273.html&usg=AOvVaw0lidPyCTEcNVmVbglcksyZ&opi=89978449
今の人佛を信じ守護(おまもり)などを掛くるは臆病者のやうに思へり。しかれども満仲、頼義、義家、正成等の臆し玉へる事ありや。嗚呼なんぞ昔の人を鑑とし標準とせざる。