吾妻鑑年・建久六年1195三月丁酉(12日)
「朝雨霽る、午以後雨頻りに降り、また地震
今日東大寺供養なり。雨師風伯の降臨、天衆地類の影向、その瑞掲焉たり。寅の一点
に、和田左衛門の尉義盛・梶原平三景時、数万騎の壮士を催し具し、寺の四面近郭を
警固す。日出以後、将軍家御参堂、御乗車なり。小山の五郎宗政御劔を持つ。佐々木
中務の丞経高御甲を着す。愛甲の三郎季隆御調度を懸く。隆保・頼房等朝臣の扈従軒
を連ぬ。伊賀の守仲教・蔵人大夫頼兼、宮内大夫重頼・相模の守惟義・上総の介義兼
・伊豆の守義範・豊後の守季光等供奉す。随兵に於いては数万騎これ有りと雖も、皆
兼ねて辻々並びに寺内門外等を警固せしむ。その中に海野の小太郎幸氏・藤澤の次郎
清親以下、殊なる射手を撰び、惣門左右の脇に座ぜしむと。御共の随兵に至ってはた
だ二十八騎、相分け前後陣に候ず。但し義盛・景時等は、侍所司たるに依って、警固
の事を下知せしむるの後、路次より更に騎馬す。各々最前・最末の随兵たりと。・・
導師は興福寺別当僧正覺憲、呪願師は当寺別当権の僧正勝賢。凡そ仁和寺法親王
以下諸寺の龍象衆会し一千口に及ぶと。誠にこれ朝家・武門の大営、見仏聞法の繁昌
なり。当伽藍は、安徳天皇の御宇治承四年庚子十二月二十八日、平相国禅門の悪行に
依って仏像灰に化し、堂舎燼を残しをはんぬ。爰に法皇重源上人に勅して曰く、本願
の往躅を訪い、高卑の知識を唱え、梓匠に課して風業を勤め成さしめ、壇主に代わっ
て不日の功を終うべきの由てえり。上人命旨を奉り、去る壽永二年己卯四月十九日、
大宋国陳和卿をして始めて本仏の御頭を鋳奉る。同五月二十五日に至って、首尾三十
余日、冶鋳十四度、鎔範功成りをはんぬ。文治元年乙巳八月二十八日、太上法皇手づ
から御開眼。時に法皇数重の足代に攀じ登り、十六丈の形像を膽仰し給う。供奉の卿
相以下、目眩み足振えて皆半階に留むと。供養の唱導は当寺別当法務僧正定編。呪願
師は興福寺別当権の僧正信圓。講師は同寺権の別当大僧都覺憲。惣て屈する所の衲衣
一千口なり。その後上人往昔の例を尋ね大神宮に詣ず。造寺祈念を致すの処、風社神
ケンに依って、親しく二顆の宝珠を得る。当寺の重宝として勅封蔵に在り。同二年丙
午四月十日、始めて周防の国に入り料材を抽採す。柱礎の構えと致し、土木の功を企
つ。柱一本を載せるの車、駕牛百二十頭に牽かしむるの由なり。建久元年庚戌七月二
十七日、大仏殿母屋の柱二本始めてこれを立つ。同十月十九日上棟。御幸有りと。草
創の濫觴と謂うは、聖武天皇の御宇天平十四年壬午十一月三日、当寺建立の叡願に依
って、大厦経営の祈請の為、始めて勅使を大神宮に発遣す。左大臣諸兄公これなり。
同十七年乙酉八月二十三日、先ず敷地に壇を構え、同じく仏の後山を築く。同十九年
丁亥九月二十九日大仏を鋳奉る。孝謙天皇の御宇天平勝宝元年己丑十月二十四日、そ
の功(三箇年間八箇度これを鋳奉る)を終え、同十二月七日丁亥、供養を遂げらる。
天皇並びに太上皇(聖武)寺院に幸す。導師は南天竺波羅門僧正。呪願師は行基大僧
正。天平勝宝四年壬辰三月十四日、始めて泥金を大仏に奉る。」
」
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