先ほどKさんから電話がありました。
先日ご主人を70歳で亡くされたそうで、浄土真宗の門徒として葬儀をあげたそうですが35日の日がお孫さんの登校日なのでどうすればいいのでしょうか等という相談でした。当方はまず35日をきっちりと僧侶をよんで勤めようというその心に打たれました。いまは葬儀のとき一緒に49日までやってしまう喪主がほとんどなのにKさんの故人をおもいやる心はすばらしいものでした。きっちりと7日毎に法事をしていたのです。チベットの「死者の書」や弘法大師逆修日記、恵心僧都源信の『往生要集』等に見るように古来四十九日間は故人の成仏の為に最も大切な期間です。この間の供養を期日通りにやってもらうことは故人のもっともよろこぶところだと思われます。しかし近親者の現世の都合と折り合いをつけるためにはすこし三十五日も前倒ししてもいいのです、とKさんに伝えました。法事全般に言えることですが忌日に遅れるのは困りますが前倒しはいいとされています。
お聞きするとご主人は数年前に喉頭癌にかかり望みを捨てずに闘病生活を送っていたのですが最後は顔の下顎部まで切除して頑張ったということです。「この世にこういう壮絶な世界があるとは七十才にして初めて知りました」とおしゃっていました。kさんは岳父岳母も長年介護して見送りっています。妹さんの嬰児の葬儀も出しておられます。最後に配偶者の癌死というのを聞いて当方はただ黙するほかありませんでした。
華厳経、縁起甚深品には、「(文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに)、仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。 眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。だから、虚妄といい、虚妄でないといい、真実でない、ということなどはかりのことばにすぎない。」とあります。
般若心経にも「照見五蘊皆空 度一切苦」とあります。
先日も述べたようにすべては「おおいなる心」の中と観想できれば「苦」もないのかもしれませんが・・
一茶の『露の世は露の世ながらさりながら』という句がしきりとおもいだされる電話でした。
先日ご主人を70歳で亡くされたそうで、浄土真宗の門徒として葬儀をあげたそうですが35日の日がお孫さんの登校日なのでどうすればいいのでしょうか等という相談でした。当方はまず35日をきっちりと僧侶をよんで勤めようというその心に打たれました。いまは葬儀のとき一緒に49日までやってしまう喪主がほとんどなのにKさんの故人をおもいやる心はすばらしいものでした。きっちりと7日毎に法事をしていたのです。チベットの「死者の書」や弘法大師逆修日記、恵心僧都源信の『往生要集』等に見るように古来四十九日間は故人の成仏の為に最も大切な期間です。この間の供養を期日通りにやってもらうことは故人のもっともよろこぶところだと思われます。しかし近親者の現世の都合と折り合いをつけるためにはすこし三十五日も前倒ししてもいいのです、とKさんに伝えました。法事全般に言えることですが忌日に遅れるのは困りますが前倒しはいいとされています。
お聞きするとご主人は数年前に喉頭癌にかかり望みを捨てずに闘病生活を送っていたのですが最後は顔の下顎部まで切除して頑張ったということです。「この世にこういう壮絶な世界があるとは七十才にして初めて知りました」とおしゃっていました。kさんは岳父岳母も長年介護して見送りっています。妹さんの嬰児の葬儀も出しておられます。最後に配偶者の癌死というのを聞いて当方はただ黙するほかありませんでした。
華厳経、縁起甚深品には、「(文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに)、仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。 眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。だから、虚妄といい、虚妄でないといい、真実でない、ということなどはかりのことばにすぎない。」とあります。
般若心経にも「照見五蘊皆空 度一切苦」とあります。
先日も述べたようにすべては「おおいなる心」の中と観想できれば「苦」もないのかもしれませんが・・
一茶の『露の世は露の世ながらさりながら』という句がしきりとおもいだされる電話でした。