福聚講

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観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・11/27

2024-11-21 | 諸経

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・11/27

十一、   月蓋の事。善光寺如来の事。諸観音經懺法の事。

この長者の姫に如是女といふ姫あり。此の息女五種の温病を悩むなり。そのとき月蓋長者佛前にまいりこの事を歎き申す也。佛の仰せらるやうは焼香散華して西方に向ひて一佛二菩薩を請したてまつれとをしへ玉へり。をしへの如く請じたてまつれば極楽世界より弥陀如来と観音と勢至と共に長者の門の敷居まで来玉へり。玄義感應妙の下にも此の事を釋する時、須達長者俤に跪き祇園に往き月蓋躬を曲げて聖の門閫(もんこん。女性の居る部屋)に居すといへり(妙法蓮華經玄義卷第六上天台智者大師説「三顯機顯應者。現在身口精勤不懈。而能感降。如須達長跪佛往祇洹。月蓋曲躬聖居門閫。如即行人道場禮懺能感靈瑞。即是顯機顯應也。」)此の時弥陀如来は光明を放ち病人を照らし、勢至は手を舒ていただきをなで、観音は六字章句の陀羅尼(おん・まにはんどめいうん)を説ひて病人を加持し玉ふなり。是を請観音經といふなり。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjEv6iDwuuGAxU6k68BHfgYJvgQFnoECCIQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F8406a29c56d4fdba3b3859cfd05b1410&usg=AOvVaw0pKXHBJK0RvFABTHjbdziD&opi=89978449

天台の祖師に遵識といふ人あり。此の請観音經を本として観音懺法と云て六根懺悔の方儀をつくるなり。(遵識は遵式と書く。宋・乾徳二年(九六四)—明道元年(一〇三二)。法宝大師、懺主禅慧法師、慈雲尊者ともいう。中国浙江台州寧海の人。はじめ禅を学び、二二歳のときに義通について天台を学び、同門の知礼と親交を結んだ。遵式は徳をもって尊ばれた。二六歳のとき、疾病にかかり吐血するも、観音懺法を修した結果快癒したという。この観音懺法とは智顗の『請観世音懺法』のことであり、それ以来遵式は懺法実修に重きを置くようになった。)是を禅宗に読むなり。此の遵識を後には大師号を慈雲大師といふなり。此の観音懺法を我が宗にも之を讀むといへども南岳大師の法華懺法ありhttps://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/07f59a8e67faf92636d49be671472916

故に観音懺法を捨ておくなり。仍って月蓋長者弥陀如来の極楽へかへり玉ふを歎き御尊形をうつして閻浮檀金を以て三尊を鋳奉るなり。本佛の弥陀如来極楽へ御帰りあれば鋳佛の弥陀も門まで、をくり出玉ふ。其の時何か本佛、いずれか鋳佛とも見わけざるなり云々。其の鋳佛とは今の善光寺の如来なり。勢至は筑前の國安楽寺の堂に御座すなり。観音は尾州甚國寺の御本尊なり。さるに依って末代の今も鬼病の起らんときは観音を念ずべきなり。(日本書紀敏達天皇十四年「三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。」とあり此の時三体の尊像は難波の堀江に投げ入れられたが篤信者に拾われて阿弥陀像は善光寺に勢至像は筑前の國安楽寺に観音像は尾州甚國寺にお祀りされる。)

観心の時は我等の煩悩が鬼となり我と我が身を責る也。されば大經には唯願は世尊我等の為に無明の鬼を除き玉へといふなり(大般涅槃經卷第二壽命品第一之二「如來今者亦應如是。度諸衆生一切無知無明繋閉。皆令解脱。然後乃入於般涅槃。我等今者皆未得度。云何如來便欲放捨入於涅槃。世尊。譬如有人爲鬼所持。遇良呪師以呪力故便得除差。如來亦爾。爲諸聲聞除無明鬼。令得安住摩訶般若解脱等法如世伊字。」)又云ふ、愚痴の羅刹其の中に止住すといへり(大般涅槃經卷第一壽命品第一「凡夫愚人常所味著。貪婬瞋恚愚癡羅刹止住其中。是身不堅猶如蘆葦伊蘭水泡芭蕉之樹」)。阿弥陀経に云く、三毒の當躰是れ鬼也といへり。我等衆生朝暮所起の貪瞋痴が即ち鬼と成り還って我が身を責め終には佛心を害す。事相の鬼は纔に一世の身を害すと雖も、煩悩の鬼は永く成仏の恵命を害する也。仍って観音を念じて煩悩の鬼を遁るべきなり。

「設復有人。若有罪若無罪。杻械枷鎖檢繋其身。稱觀世音菩薩名者。皆悉斷壞即得解脱。」六に「設復有人」より下は「杻械枷鎖」の難なり。両巻の疏に云く、手にあるを杻(てかせ)と名け、足に有るを械(あしかせ)と名け、頸にあるを枷(くびかせ)と名け、身に在るを鎖(かなくさり)といへり。三木一鐵の名なり(觀音義疏卷上「在手名杻在脚名械。在頸名枷連身名鎖。此則三木一鐵之名也。」)繋といふは縛せらるる事なり。檢といふは其の縄目に封を付けて験(しるし)をする事なり。観音を念ずる人は此の如くの難をも遁るべしといへり。

 

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