平成17年秋の遍路では、3番金泉寺から4番大日寺の道は田のあぜ道が遍路道になっていて足元には曼珠沙華が咲き乱れ柿木から熟柿がたわわに垂れ下がっていました。
50年前の実家の山寺の風景がそのまま再現されているようでした。雑誌でみた徳島の小学生の女の子の
「曼珠沙華ひいおばあちゃんがさいている」
という句を思い出しました。
◇
また3番から4番大日寺のみちのべには振袖地蔵と書かれたお地蔵様がお祀りしてあります。
その前で休んでいますと十八、九の色白のふくよかな娘さんが自転車で近付いてきて4番までの道を親切に教えてくれました。 お礼をいい、ふと横の振袖地蔵の由来をみると「天正十年(1582)地元板野郡の古城板西城は土佐勢に攻められ落城したがそのとき城のかよ姫もここで切られた。
この地蔵は姫の供養のため地元の村人が振袖姿のお地蔵様を祀ったもの。」と書いてあります。
途端にいま道を教えてくれた娘さんが、かよ姫だったような気がして再度お地蔵様を拝みました。
◇
4番大日寺の前では画家の安野光雅似の行商のおじさんが蜜柑と柿をお接待してくれました。一日歩き疲れて乾いた喉に甘い果汁が染みとおりました。お経にいう甘露とはこういう味かと思いました。2年後の19年5月の遍路の時もこのおじさんがいたので懐かしくて駆け寄りました。17年の礼を言ってお金を渡しましたが「この先まだ回るでしょうが・・・」と言ってどうしても受け取りません。遍路宿でも繕い物をしていただいたりシャワーを借りたりした時少しお礼をおいていこうとするのですが頑として受け取りません。四国のひとは昔気質で頑固です。その後21年に回ったときはもういませんでした。まさに一期一会です。4番は17年当時は古びていましたがその後お参りしたときは綺麗に修理されていました。「四国遍路日記(澄禅)」では「黒谷寺(山号が黒巌山だからこういったのかもしれない)、本尊大日如来、堂舎零落したるを当所に大富貴の俗あり、杢兵衛と云、この仁は無二の信心者にて近年再興して堂を結構にしたると也」とあります。「四国遍路(平幡良雄)」によると、ここの先々代のご住職は通夜堂でらい病の遍路を泊めて、「信仰心さえあればお大師様がご加護してくださる」といって献身的に介護したと云います。
19年3月25日には遍路宿で偶然チャンネルを回したらNHK「心の時間」が映り、ここ四番大日寺住職の真鍋俊照博士がご自身でかかれた両界曼荼羅の解説をされているところでした。
50年前の実家の山寺の風景がそのまま再現されているようでした。雑誌でみた徳島の小学生の女の子の
「曼珠沙華ひいおばあちゃんがさいている」
という句を思い出しました。
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また3番から4番大日寺のみちのべには振袖地蔵と書かれたお地蔵様がお祀りしてあります。
その前で休んでいますと十八、九の色白のふくよかな娘さんが自転車で近付いてきて4番までの道を親切に教えてくれました。 お礼をいい、ふと横の振袖地蔵の由来をみると「天正十年(1582)地元板野郡の古城板西城は土佐勢に攻められ落城したがそのとき城のかよ姫もここで切られた。
この地蔵は姫の供養のため地元の村人が振袖姿のお地蔵様を祀ったもの。」と書いてあります。
途端にいま道を教えてくれた娘さんが、かよ姫だったような気がして再度お地蔵様を拝みました。
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4番大日寺の前では画家の安野光雅似の行商のおじさんが蜜柑と柿をお接待してくれました。一日歩き疲れて乾いた喉に甘い果汁が染みとおりました。お経にいう甘露とはこういう味かと思いました。2年後の19年5月の遍路の時もこのおじさんがいたので懐かしくて駆け寄りました。17年の礼を言ってお金を渡しましたが「この先まだ回るでしょうが・・・」と言ってどうしても受け取りません。遍路宿でも繕い物をしていただいたりシャワーを借りたりした時少しお礼をおいていこうとするのですが頑として受け取りません。四国のひとは昔気質で頑固です。その後21年に回ったときはもういませんでした。まさに一期一会です。4番は17年当時は古びていましたがその後お参りしたときは綺麗に修理されていました。「四国遍路日記(澄禅)」では「黒谷寺(山号が黒巌山だからこういったのかもしれない)、本尊大日如来、堂舎零落したるを当所に大富貴の俗あり、杢兵衛と云、この仁は無二の信心者にて近年再興して堂を結構にしたると也」とあります。「四国遍路(平幡良雄)」によると、ここの先々代のご住職は通夜堂でらい病の遍路を泊めて、「信仰心さえあればお大師様がご加護してくださる」といって献身的に介護したと云います。
19年3月25日には遍路宿で偶然チャンネルを回したらNHK「心の時間」が映り、ここ四番大日寺住職の真鍋俊照博士がご自身でかかれた両界曼荼羅の解説をされているところでした。