今朝、理趣法を修していても きもちが散乱して、すこしも集中できませんでした。
自分の至らなさを反省することしきりですが、散乱するものは仕方ないのです。
どう散乱するかといえば、尖閣諸島問題に端を発した日中間の問題でした。修法していても「日中間はあっと云う間に大変なことになる」と思えて仕方ありませんでした。
問題は尖閣に端を発していますが、それはきっかけに過ぎません。日中はあっという間にいくところまでいく気がしました
仏門にいるものとして戦争をどう考えるかということがまた問われる事態になってきました。
大蔵経そのものも中国からのもので、お大師様のお師匠様の恵果阿闍梨も中国の方であり中国は特に日本密教の歴史にとっても欠かすことのできない地であることは確かです。こういう国とことを構えるのをどう考えるかということを考えました。
しかし当時の文治主義の中国は消え去って久しいのです。今の共産主義中国とは断絶しています。むしろチベット問題にみられるように仏教を抑圧・弾圧していることも確かです。
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このブログ「護国仏教」で国民(為政者)が愚かであれば国土に自然災害・他国侵略等の国難が次々ふってくると守護国界主陀羅尼経等にかいてあると述べてきましたが、いまはそういう時点をとっくにすぎてしまっています。
まさに元寇の役で高僧達が鎮護国家の加持祈祷をし日本中が護摩の煙で覆われたような時代に再突入しました。
一人一人の国民も緊張した対応を求められるのは当然ですが、密教僧も愚僧は愚僧なりに護国のためにつとめなければなんの行者ぞといわれましょう。愚僧の最末席の自分も「護国密教の徒としてできることをなしていかねば」とこれも修法中に強く思わされました。