福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は和田性海猊下遷化の日

2024-03-09 | 法話

 

和田性海師は密教辞典によると「明治12年8月2日~昭和37年3月9日。号不可得。兵庫県佐用郡の人。明治26年清林寺伊達義禅に得度。同35年東京哲学館卒業。林本応から苾蒭戒と灌頂を受け、同42年御室派伝道部主任。以布教師として内地・朝鮮・ホノルルに巡教。昭和9年高野山大学学長、24年高野山真言宗管長・・昭和29年平井巽・藤田清・亀井宣雄等と共に月刊「全人」を発行。著書、仏教修養講話・現代思想と真言密教・大師主義・聖跡を慕ふて、など・・」

 

「にはかへんろ記(久保田万太郎)」に、和田性海師のことが出てきます。

「・・これよりさき、ぼくは、霊山寺の納経所で、“聖跡を慕うて”といふ本を、目についたまゝ、何ごゝろなく買つた。何ごゝろなく買つた位だから、何ごゝろなく読んだ。……読んで、そして、こんないゝ本のあるのを、なぜ、もッと早く知らなかつたかと、ぼくは、ぼくの寡聞を恥ぢた。

“聖跡を慕うて”とは、すなはち、明治三十九年、著者二十八歳のとき、兄事する一人の先輩とゝもに、四国八十八ヶ所の霊場を巡拝した七十余日間についてつぶさにしるしたものだが、それについてはあとで書く。いまは、まづ以て、その本文につけ加へた“巡礼遍路の意義”といふ文章の示すところに従つて、“遍路とは何んぞや”といふそもそものあなたの問ひにこたへる。

“巡礼と云へば西国三十三ヶ霊場の、観音巡拝者のことであり、遍路と云へば、四国八十八ヶ所の、大師参詣者の呼称である。今日では仏教に於ける大衆的修道者の巡拝群として、この二者が最も有力なものになつてゐる。”といふ書出しではじまつてゐるこの文章は、巡礼及び遍路の宗教的意義として、つぎの五つをあげてゐる。

一、自然に還ること。二、つねに仏とゝもにゐること。三、人間愛に徹すること。四、心身の病魔を去ること。五、宗教生活の意義を体験すること。

以上のどれも、説明されゝば(あるひは、説明されなくつても)納得の行くことばかりだが、とくに“二”の“仏とゝもにゐること”については、遍路の笠にかならずしるされる“同行二人”、及び、“迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北”の説明をとほして、著者の心魂からほとばしる生きた知識を、ぼくは、うけとることができた。著者の文体を紹介する意味からも、ぼくは、その一トくだりをこゝに抄出しよう。

“四国、西国の巡礼者は、日々仏と倶に居るのである。冠れる菅笠に、同行二人と記せるのがその証左である。彼等は到る所の霊場で納経をいたゞき、その本尊を負笈おひずるに入れて、之れを背負うて行く、これ仏、我と倶に在います表示である。

「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北」

菅笠や金剛杖に書かれたこの文句は、利害得失に苦しむ、人間界の迷ひを離れて、十方無碍の楽しみを得る、仏の境域に処するといふことで、一切の社会的罪悪から脱して、日々是好日の世界に暮して居ることを、自覚せよとの警示である。

すでに我は仏の子にして仏と倶に在り、人も、亦、仏の子にして仏と倶に在り、かくて倶に行く友も人にして仏である。向うより来る巡礼遍路も、亦、人ながらの仏である。されば途中にて出逢ふ人々をば仏と思ひ、必ず合掌して礼拝する。同行する友に対しても、朝夕手を合せて相拝む。ここに於て人も我も昨日までの闘争の街から脱して、菩薩聖衆の如く優遊する、極楽浄土を眼前に将来するのである。昼は宝号を念誦して山川の間をたどり、村落に入りて詠歌を放唱して接待を受け、各霊場へ詣でては、生みの親の家に帰りしが如く、法悦歓喜して御本尊を礼拝し、夕方宿に到着すれば、急坂険路に我を扶け、終日我を導きたる金剛杖を、先ず浄水にて洗ひ清め、仏の御足なりと押し頂きて、床の隅に置き、菅笠は仏が捧げて、我を覆ひ下されし天蓋なりと思ひて、大切に杖の傍に置き、負笈の中より納経を出して床上に安んじ、懇に一日の御守護を感謝し、心ゆくまで読経念誦して、自己本来の魂を錬磨し、仏我一体の三昧に入るのである。”

東京哲学館在学中、境野黄洋、高嶋米峰たちの新仏教同志会に加入したり、そのころ勃興した社会主義思想を研究したりするかたはら、正岡子規の門を叩いて、和歌、俳句の道にいそしんだ著者は、明治三十六年、二十五歳で郷里の寺の住職になつたが、古い因襲のクモの巣十重二十重の“お寺さま”の生活に何んとしても慊らず、僧籍を脱しようとさへ決心した。著者のその悩みを知つて、同郷の先輩が四国の霊場巡拝をすゝめ、山河幾百里、ともに七十余日の旅をつゞけたのである。そして、その間、あるひは遍路にでたまゝ行方知れずになつた父親をたづねて、家を捨て、妻子を残し、おのれもまた一人、遍路にでたといふ男に逢つたり、あるひは、レプラのきざしのでて来た二人の不幸な子たちのために、夜ッぴて、大師堂の縁に、ふきまくる山風の中“南無大師遍照金剛”の宝号をとなへ、仏に祈りつゞける母親の必死の声を聞いたり、あるひは、道で、髪は抜け、顔は腫れ上り、目は片目、鼻のかたちもわからない老遍路に逢ひ、あまりのその醜さに驚いて、おもはず顔を背けて行き過ぎようとすると、その遍路は、いともいんぎんに著者のまへに合掌し、宝号をとなへ、夢中で拝みかけた。著者は、おもはずその真剣さにうたれ、直ちにその遍路のまへに、跪坐、合掌、ともども“南無大師遍照金剛”をとなへ、ぬぐひあへぬ泪を流したりしたのである。

かくて、著者の信仰の目はひらけた。……しだいに、家のことだの、世の中のことだのを一切わすれて、その日その日の糧かてと宿りとを求める以外には、ひとへにたゞ、大師の恩徳をのみ思ふやうになつた。

“……信仰を求めるには、赤子の心にならねばならぬと云ふが、丁度余の心も世事から離れ、朗然として塵一本も留めぬやうになりかけて、その快感は云ふばかりなきものがあつた。此数十日間、世塵を離れて、数百里の道をたどり、ひたすら大師の恩徳を念じ、深刻なる宗教味を味はふやうに、霊場参拝の道を遺されたことは、修道者にとりて真に有難い方便である。”

と、著者は教へてゐる。

この著者……和田不可得といふ著者の、さきの高野山の管長、和田性海さんといふ大徳だといふことを、ぼくは、勿論そのときはまだ知らなかつた。・・」

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