福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論 觀因緣品第一 

2021-08-10 | 諸経

中論 (龍樹造 鳩摩羅什譯 靑目釋)
觀因緣品第一 
不生亦不滅  不常亦不斷  不一亦不異  不來亦不出 
善く是の因緣を説き  善く諸戲論を滅す、 我稽首禮佛す、  諸說中第一 なりと。
問うて曰く、何の故にか、此の論を造る。
答て曰く、有人の言わく、『萬物は、大自在天(シバ神)より生ず』と。有が言わく、『韋紐天(ヴィシュヌ神)より生ず』、有が言わく、『和合より生ず』、有が言わく、『時より生ず』、有が言わく、『世性(実体的なもの)より生ず』、有が言わく、『変(変化)より生ず』、有が言わく、『自然より生ず』、有が言わく、『微塵より生ず』、と。是の如き等の謬有るが故に、無因、邪因、断常等の邪見に堕し、種種に我・我所を説くも、正法を知らず。
仏は、是の如き等の諸邪見を断じ、仏法を知らしめむと欲するが故に、先ず、声聞法中に十二因縁を説き、又已に習行して大心(自他平等の心)有り深法を受くるに堪うる者の為に大乗法(大乗のこと)を以って、因縁の相、謂る一切法、不生不滅、不一不異等、畢竟空、無所有なるを説きたまへり。
般若波羅蜜中に「仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩、道場に坐せる時、十二因縁を観ずること、虚空の尽くすべからざるが如し』」と説くが如し。(大品般若無盡品第六十七に「・・須菩提。若求菩薩道而轉還者。皆離般若波羅蜜念故。是人不知云何行般若波羅蜜。應以虚空不可盡法觀十二因縁。・・」)

仏の滅度の後、後五百歳の像法中には、人根うたた鈍く、深く諸法に著し、十二因縁、五陰十二入十八界等の決定相を求め、仏意を知らずして、但だ文字のみに著し、大乗法中に畢竟空を説くを聞けども、何の因縁の故に空なりやを知らず、即ち疑見を生じ、『若し都て畢竟じて空なれば、云何が罪福報応等有るを分別せんや』と。是の如くんば、則ち世諦も第一義諦も無く、是の空相を取りて貪著を起し、畢竟じて空中において、種種の過を生ぜん。
龍樹菩薩は、是れ等の為の故に、此の中論を造れり。

不生亦不滅  不常亦不斷 不一亦不異  不來亦不出 (第一偈)
能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す、 我は稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。(第二偈)

此の二偈を以て、仏を讃じ已って第一義を略説せり。
問うて曰く、諸法は無量なり。何の故に、但だ此の八事(不生不滅・不常不斷・不一不異 ・不來不出)のみを以って破するや。
答へて曰く、法は無量なりと雖も、略して八事を説けば、則ち総じて一切の法を破すと為す。
不生とは、諸の論師、種種に生相を説きて、或いは謂はく因果は一なり、或ひは謂はく因果は異なりと、或ひは謂はく因の中に先に果有りと、或ひは謂はく因の中に先に果無しと、或ひは謂はく自體より生ずと、或ひは謂はく他より生ずと、或ひは謂はく共より生ずと、或ひは謂はく有生と、或ひは謂はく無生と。是の如き等は生相を説くも皆然らず。此の事、後に当に広く説くべし。生相は、決定して不可得なるが故に不生なり。不滅とは、若し生無くんば、何んが、滅有るを得ん。生無く、滅無きを持っての故に、余の六事(不常不斷・不一不異 ・不來不出)も亦た無し。
問うて曰く、不生不滅は已に総じて、一切法を破せり。何の故に、復た六事を説くや。
答て曰く、不生不滅の義を成ぜんが為の故なり。有人は不生不滅を受けず、而も不常不断を信ず。若し深く不常不断を求むれば、即ち是れ不生不滅なり。何を以っての故に、法は若し実有なれば、則ち応に無なるべからず。先に有にして、今無きを是れを即ち断と為す。若し先に性有らば、是れ則ち常と為す。是の故に不常不断を説いて、即ち不生不滅の義に入る。
有る人は四種に諸法を破すを聞くと雖も、猶ほ四門を以って、諸法を成ぜんも是れ亦た然らず。若し一なれば則ち縁無し。若し異なれば則ち相続無し。後に当に種種に破すべし。是の故に、復た不一不異を説く。有る人は、六種に諸法を破すを聞くと雖も、猶ほ来、出を以って、諸法を成ぜんとす。来とは、諸法は自在天、世性、微塵等より来るを言い、出とは、還り去って、本処に至るなり。復た次に、万物は生無し。何を以っての故に。世間現見の故なり。世間眼見には、劫初の穀の不生なるを見る。何を以っての故に、劫初の穀を離れては、今の穀を得べからざればなり。若し劫初の穀を離れて、今の穀有らば、則ち応に生有るべし。而も実に爾らず。是の故に不生なり。(穀は種・芽・穀・種・芽・穀と循環して新たに無より生じることなければ畢竟無窮にして始めがない。)
問うて曰く、若し不生ならば、則ち応に滅なるべし。
答て曰く、不滅なり。世間に現見の故なり。世間眼見には、劫初には穀は不滅なり。若し滅なれば、今も応に穀有るべからず。而も実に穀有り。是の故に不滅なり。
問うて曰く、若し不滅ならば、則ち応に常なるべし。
答て曰く、不常なり。何となれば、世間現見(世間の目)の故なり。世間眼見には、万物は不常なりと見る。穀芽の時、種は則ち変壊せるが如し。是の故に不常なり。
問うて曰く、若し不常ならば、則ち応に断なるべし。
答て曰く、不断なり。何となれば、世間現見の故なり。世間眼見には、万物の不断なるを見る。穀によって芽有るが如し。是の故に不断なり。若し断ならば、応に相続すべからず。
問うて曰く、若し爾らば、万物は是れ一なり。
答て曰く、不一なり。何を以っての故に、世間現見の故なり。世間眼見には、万物の不一なるを見る。穀は芽と作らず、芽は穀と作らざるが如し。若し穀は芽と作り、芽は穀と作らば、応に是れ一なるべし。而も実に爾らず。是の故に不一なり。
問うて曰く、若し不一ならば、則ち応に異なるべし。
答て曰く、不異なり。何を以っての故に、世間現見の故なり。世間眼見には、万物の不異なり。若し異ならば、何の故にか、穀芽、穀茎、穀葉を分別して、樹芽、樹茎、樹葉と説かざるや是の故に不異なり。
問うて曰く、若し不異ならば、応に来有るべし。
答て曰く、来無し。何を以っての故に、世間現見のなり。世間眼見には物の不来なり。穀子中には芽の従来する所無きが如し。若し来ならば、芽は応に余処より来たること、鳥の来たりて、樹に栖むが如くなるべし。而も実に爾らず。是の故に不来なり。
問うて曰く、若し不来ならば、応に出有るべし。
答て曰く、不出なり。何を以っての故に、世間現見の故なり。世間眼見には萬物不出を見る。若し出有らば、応に芽の穀より出づること、蛇の穴より出づるが如きを見るべし。而も実に爾らず。是の故に不出なり。

問うて曰く、汝は、不生不滅の義を釈すと雖も、我れは、造論者の所説を聞かんと欲す。
答て曰く、 諸法は自より生ぜず、亦た他より生ぜず、共にあらず因無きにあらず、是の故に無生なりと知る。自より生ぜずとは、万物は、自体より生ずる有ること無く、必ず衆因(縁)を待つ。復た次ぎに、若し自体より生ぜば、則ち一法に、二体有らん。一には謂く生、二に謂く生ずる者なり。若し余の因を離れて、自体より生ぜば、則ち無因無縁なり。又生に更に生有らば、生は則ち無窮ならん。自無きが故に、他も亦た無し。何を以っての故に、自有るが故に他有ればなり。若し自に従り生ぜず、亦た他より生ぜずんば、共生は則ち二の過有らん。自生と他生との故なり。若し無因にして万物有らば、是れ則ち常と為す。是の事は然らず。無因なれば、則ち無果なり。若し無因にして、果有らば、布施、持戒等は応に地獄に堕すべく、十悪、五逆は応に天に生ずべし。無因なるを以っての故なり。
復た次ぎに、
諸法の自性の如きは、縁中に在らず、
自性無きを以っての故に、他性も亦復た無し。(第四偈)

諸法の自性は、衆縁中に在らず、但だ衆縁和合の故に、名字を得。自性は、即ち是れ自体なり。衆縁中に自性無し。自性無きが故に、自より生ぜず。自性無きが故に、他性も亦た無し。何を以っての故に、自性に因りて、他性有り。他性とは、他に於いて亦た是れ自性なればなり。若し自性を破せば、即ち他性を破す。是の故に応に他性より生ずべからず。若し自性と他性を破せば、即ち共の義を破す。無因ならば、則ち大過有り。有因すら猶ほ破すべし。何ぞ況んや、無因をや。四句(自・他・共・無因)中に於いて、生は不可得なり、是の故に不生なり。問うて曰く、阿毘曇人(小乗有部宗の人々)の言わく、『諸法は、四縁より生ず』、と。云何が、不生と言はん。
何んが四縁と謂う、
因縁、次第縁、縁縁、増上縁の四縁は諸法を生ず、更に第五の縁無し(もろもろの縁は四種である。因縁(原因としての縁)次第(心理作用の続いておこる縁)縁縁(認識の対象としての縁)増上縁(妨げず助ける縁)第五の縁は存在しない。)(第五偈)

一切のあらゆる縁は、皆、四縁に摂す。是の四縁を以って、万物は生ずるを得。因縁は、一切の有為法に名づけ、次第縁を、過去現在の阿羅漢の最後の心・心数法(心の主体と心が示す様々な様子)を除いて余の過去現在の心・心数法なり、縁縁、増上縁は、一切法なり。
答えて曰く、
果は縁より生ずと為すや、非縁より生ずと為すや、
是の縁に果有りと為すや、是の縁に果無しと為すや。(この偈は因縁も果も不可得なるを説いて以て不生に導こうとするもの)(第六偈)
若し『果有り』と謂わば、是の果は縁より生ずと為すや、非縁より生ずと為すや。若し『縁有り』と謂わば、是の縁には、果有りと為すや、果無しと為すや。二つ倶に然らず。
何を以っての故に、
是の法に因りて果を生ず、是の法を名づけて縁と為す、
若し是の果未だ生ぜずんば、何んが非縁と名づけざらん。(果が生じないかぎ り非縁(縁に非ずと言わざるを得ない。第七偈)

諸縁は決定無し。何を以っての故に、若し果未だ生ぜざれば、是の時は名づけて、縁と為さず。但だ眼眼に縁より果を生ずるを見るが故に之を名づけて縁と為す。
縁の成ずるは、果に由る。果は後、縁は先なるを以っての故に。若し未だ、果有らずんば、何をか名づけて縁と為すを得ん。瓶は、水と土との和合を以っての故に、瓶の生ず有。瓶を見るが故に、水と土等は、是れ瓶の縁なりと知るなり。若し瓶の未だ生ぜざる時には、何を以ってか、水、土等を名づけて、非縁と為さざるや。是の故に、果は縁より生ぜず。縁すら尚生ぜざるに、何に況んや、非縁よりをや。
復た次ぎに、
果は先に縁中に、有と無なること倶に不可なり、
先に無ならば誰の為にぞ縁ずる、先に有ならば何ぞ縁を用有ゐん。(無の物に対しても有の物に対しても縁は立てらない。無の物に対しては誰の縁となるか。また有の物に対しては縁は何の用があるのか。いまさら縁は不要である。第八偈)

縁中に先に果有るに非ず、果無きに非ず。若し先に果有らば名づけて縁と為さず、果先に有るが故に。若し先に果無ければ、亦た名づけて、縁と為さず、余物を生ぜざるが故に。

問うて曰く、已に総じて、一切の因縁を破せり。今は一一に諸縁を破することを聞かんと欲す。
答て曰く、
若し果有にして生ずるに非ず、亦復た無にして生ずるに非ず、
亦た有無にして生ずるに非ざれば、何ぞ縁有りと言うを得ん。(物は,有としても,無としても,有無としても,生ずることはない。有の法も無の法も有無の法も生じない時、どうして生ずる因縁があろうか。此の如くなるが故に因果は立てられない。 第九偈)
若し縁、能く果を生ぜば、応に三種有るべし。若しは有、若しは無、若しは有無なり。

先の偈中に説くが如く、縁の中に若し先に果有らば、生と言うべからず、先に有るを以っての故なり。若し先に果無くも、応に生と言うべからず、先に無きを以っての故に、亦た応に非縁と同じきが故なり。有無も亦た不生なりとは、有無を名づけて、半有、半無と為す。二は倶に過有り。
又有と無とは相違し、無と有とは相違す。何んが、一法に二相有るを得ん。
是の如く三種に果に生相を求むるも、不可得なるが故に、云何が、因縁有りと言はむ。
次第縁とは、
果の未生の時の若きは、則ち応に滅有るべからず、
滅法は何ぞ能く縁たらむや、故に次第縁無し。(諸法が滅せざる時は滅は存在せず。滅したるものにおいては何の縁があろうか。故に次第縁はない。第十偈)

諸の心・心数法は、三世中に次第に生ず。現在の心・心数法滅して未来の心のために次第縁と作る。未来の法、未生なるに、誰のためにか、次第縁と作らん。
若し未来の法、已に有らば、即ち是れ生ぜるなり。何ぞ次第縁を用いん。
現在の心・心数法は、住する時(とどまる)有ること無し。若し住せずんば、何ぞ能く、次第縁と為らん。
若し住有らば、有為法に非ず。何を以っての故に、一切の有為法は、常に滅相有るが故なり。若し滅し已れば、則ち次第縁と作る能わず。
若し滅法にして、猶ほ有りと言わば、則ち是れ常なり。若し常なれば、則ち罪福等無けむ。
若し滅時に、能く与に次第縁と作ると謂わば、滅時は、半ば滅、半ば未滅なり。更に第三法の名づけて、滅時と為すもの無し。
又仏の説きたまわく、『一切の有為法は、念念に滅して、一念の時も住すること無し』、と。云何ぞ、現在の法に、欲滅と、未欲滅と有りと言はむ。
汝、『一念中に、是の欲滅、未欲滅無し』と謂わば、則ち自法を破せん。
汝の阿毘曇に説かく、『滅法有り、不滅法有り、欲滅法有り、不欲滅法有り』、と。欲滅の法とは、現在の法の、将に滅せんと欲するなり。未欲滅の法とは、現在の将に滅せんと欲する法を除て、余の現在の法及び過去未来の無為法、是れを不欲滅の法と名づく。是の故に次第縁無し。
縁縁は、
諸仏の所説の如きは、真実微妙の法なり、
此の無縁の法に於いて、云何が縁縁有らん。( 第十一偈)

仏の説きたまわく、『大乗の諸法の、若し有色、無色、有形、無形、有漏、無漏、有為、無異等の諸法の相は、法性に入って、一切皆空にして、無相無縁なり。譬へば衆流は海に入りて、同じく一味と為るが如し』、と。実法の可信は、随宜の所説なれば、実と為すべからず。是の故に縁縁無し。

増上縁とは、
諸法は自性無し、故に有相有ること無し、 是の事有るが故に、是の事有りと説くは然らず。(実体のない諸の存在はあること一般は存在しない。従って之あるときに彼在り、という増上縁は成立しない。)
経に十二因縁を説いて、『是の事有るが故に是の事有り』といふは、此れは、則ち然らず。
何となれば、諸法は衆縁に従り生ずる故に自ら定性無し、自ら定性無きが故に、有相有ること無し。有相無きが故に、何んが、『是の事有り、故に是の事有り』と言うを得んや。是の故に増上縁無し。仏は、凡夫に随いて、有無を分別するに従うが故に、説きたまえり。

復た次ぎに、
略・広の因縁中に、果を求むるも不可得なり、
因縁中に若し無くんば、云何が縁より出でん。
略とは、和合の因縁中に於いて、果無きなり。広とは、一一の縁中に於いても、亦た果無きなり。若し略・広の因縁中に果無くんば、云何が、『果は、因縁より出づ』、と言わんや。

復た次ぎに、
若し縁に果無くして、而も縁中より出づと謂わば、
是の果は何んが、非縁中より出でざる。

若し因縁中に果を求むるも不可得ならば、何の故に非縁より出でざるや。泥中に瓶無きが如くんば、何の故に、乳中より出でざるや。

復た次ぎに、
若し果にして縁より生ぜば、是の縁は無自性なり、
無自性より生ずるに、何んが縁より生ずるを得ん。
果は縁に従り生ぜず、非縁に従りも生ぜず、
果は有ること無きを以っての故に、縁・非縁とも亦た無し。

果は衆縁に従り生ずるも、是の縁には自性無し、若し自性無ければ、則ち法無し。法無ければ、何ぞ能く生ぜん。是の故に果は、縁に従り生ぜず。
非縁に従り生ぜずとは、縁を破するが故に非縁を説くも、実に非縁の法無し。是の故に、非縁に従りも生ぜず。若し二従り生ぜざれば、是れ則ち果無し。果無きが故に、縁・非縁も、亦た無し。

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