福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「白山之記」

2023-12-18 | 諸経

「白山之記」

(奥書から平安後期の長寛元年(1163)成立とみられる白山宮最古の縁起(原本は国指定重要文化財)。これによると、白山山頂を禅定と名付け、ここには正一位白山妙理大菩薩という有徳の大明神が住まう。その本地は十一面観音とする。また、白山山頂への登拝の拠点を「馬場」(ばんば)と呼ぶが、天長9年(832)には加賀・越前・美濃の三つの馬場が開かれていたとあり、この縁起では現在の白山比咩神社にあたる加賀番場が本馬場であるとしている。

白山とは、加賀・越前・美濃国境に位置する御前峰(ごぜんがみね:2707m)、大汝峰(おおなんじみね:2684m)、別山(べつさん:2399m)を総称しての呼称で、古くから天下の名山として聞こえた。御前峰の奥宮には菊理媛命(くくりひめのみこと)を、大汝峰の大汝神社には大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)を、別山の別山神社には白山の地主神である大山祇神(おおやまつみのかみ)をお祀りしている。大己貴神(おおなむちのかみ)は、阿弥陀如来の垂迹神といわれている。大山祇神は聖観音の垂迹神といわれています。『白山之記(しらやまのき)』では本来の地主神が白山権現に、御前峰を譲って別山にお鎮(しず)まりになったとされています。

 

 

また、長久三年(一〇四二)白山越前室の住僧良勢が新宮を設け三馬場の座主・別当を追放し、参詣人の進物を押領、このため加賀馬場の行人らは良勢を焼殺すという事件が起こり放火・殺人の輩が寄宿する不浄を怒った白山は噴火し、このとき翠ヶ池が生じたと記す。)

 

 

 

加賀の国石川郡味智の郷に一つの名山あり。 白山と号す。 其の山頂を禅定と名づく。 有徳の大明神住す。 即ち正一位白山妙理大菩薩(伊弉冉尊又は菊理姫)と号す。 その本地は十一面観自在菩薩なり。 一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す。 殿の前に一尺八寸の鰐口を繋けたり(末代聖人の請に依り、禅頂法皇(鳥羽上皇)の御願なり)。 又長さ一丈の錫杖を立てたり(同じ請、同じ御願なり)。東に社あり。児宮と号す。 如意輪の垂迹なり。西に一の社あり。 別山の本宮なり。北に並て高峯峙つ。 其の頂に大明神住し、高祖太男知(大已貴神のこと)と号す。 阿弥陀如来の垂迹なり。 一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す。 其前に一丈の錫杖を立てたり(末代前の如し)。 一尺八寸の鰐口を繋けたり(願主は越前国足羽に住む証意なり)。 香呂一枚(願主は前の如し)。

南に十数里去りて高山あり。 其の山頂に大明神住し、別山大行事と号す。 是れ大山の地神(大山祇神)なり。 聖観音の垂迹なり。 一間一面の宝殿あり。 五尺の金銅の像を安置す。 殿の前に錫杖を立てたり(末代前の如し)。 一尺八寸の鰐口を繋たり。 香呂一枚(前の如く証意なり)。此れを白山の三の御山の御在所(御前嶺・大已貴岳・別山の三嶺)と名づく。

 

後に峙つ一つの少高山は、剣の御山と名づく(神代のミササギなり)。 是の麓に池水あり。 翠池と号す。 たまたまその水を得てこれを嘗むれば、齢を延ぶる方なり。

大山の傍に玉殿あり。 翠池より権現出生し給ふなり(元亨釈書巻十八)。

西に小社あり。 別山の本宮なり。 権現に譲り奉り、南山に渡り給ふなり。

池の西に深き谷あり。 雪積りて未だ曽より消え滅びず。 これを千歳谷と名づく。

谷の南を竜尾と名づく。 その麓に泰澄大師https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E6%BE%84#:~:text=%E6%B3%B0%E6%BE%84%EF%BC%88%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%80%81%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87,%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E3%81%A8%E7%A7%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82の行道の跡、四百有余歳を経と雖も(養老元年717、泰澄36歳の時白山を開山したと伝わる。この白山記は長寛元年(1163)成立したとされるから四百年後になる)、その跡に草木生へず、聖跡新たなり。 もしこれ大師入滅の後と雖も、常に行じ給ふに、凡眼及ばざるか。 即ちかの山は、泰澄大師行じ奉り顕はし給ふなり。池上に一岡あり。 稲倉峯と云ふ。 或は大師の縛石と云ふ。又一峯あり。 皮籠峯と云ふ。

凡そ案ずるに、山の躰たらく、震旦の五台山に異ならず。 五台は大聖文殊の栖宅の地なり。 白山は観音薩埵利益の砌なり。 一度清涼峯を践めば、必ず文殊の利益に預り、一度白山に攀づる類、観音の冥助を疑はざるものか。

劫初より以来、常に佛菩薩の集会の砌といへども、機感の時至りて、養老三年已未(719)七月三日御宅宣成り始めて、この長寛元年癸未(1163)に至りて四百四十五ケ年なり。加州に垂迹すといへども、天長九年壬子(832)三方の馬場を開く(加賀の道場(白山寺)、越前の道場(平泉寺)、美濃の道場(長滝寺)の神宮寺が建立された。)即ち三宝の馬場より御山に参詣するに道俗恒沙の如く喩ふるにあらず。或は禅上法皇花山院参詣頓首せしめたまひ、十善の玉軆の身を雲漢に曲げて四海の君主その地に践みたまへり。凡そ官位・福寿を求め、智慧・辨才を願ふに願に随ひ望みに任せ、一々に円満ならざるはなし。三方の馬場より参詣の輩、皆その別当に御幣を捧げ、事を申さむしむ。

然る間長久年中(壬午・1042年)一の悪比丘出来して、出雲の小院良勢と申す。その性凶悪にして、その行ひは非法、越前の室に住す。権現をその方の坂本に下ろし奉り、新宮と号し、三方の座主別当を追ひ去けて、参人の進ずる所の物を横領す。これらの如き非法を致すの間、加賀の馬場の行人等数十人、越前の馬場を望み、初更の時(午後八時頃)を以て、かの良勢が住所の室戸を打ち塞いて、焼殺を擬するの時、良勢云く「この身、既に権現の罰を蒙り畢んぬ。立たんと欲するに立つこと能はず。ただこの室内に寄宿する参人数十人焼死せらること無道なり。これを出だして後に火を付けらるべし」と云々。良勢の云ふが如く、一人々々次第に出だし奉り、その後に良勢を焼き殺す。火を放ちし輩、加賀の室に寄宿して、次の日、中本宮に下り畢んぬ。その後に一人の僧止宿す。夜半計に大声あり、告げて云く「汝、室を出よ」と云ひて石を以て打つ。僧迷悶して出でざれば、又重ねてこれを打つ。打つといへどもいよいよ恐れをなして出でず。しばしば又土石を投げ撃つこと雨の如し。この時、迷ひて室を出でたり。傍に一丈餘の石あり。采女と名く。その石の影に隠れてこれを見るに、惣て四五宇これを埋めて一の岳を成す。その土石を穿つ所の跡二所あり。一所は水澄みて今に翠の池と名く。一所は深き谷を成すといへども、その土石、道に投じ、細長の小山を作す。埋む所の室堂の財木の端少々これを出す。奇特奇特、勝げて計ふべからず。その故を案ずるに、放火殺害の輩寄宿する故に極めて不浄なり。よってこれを埋めらるるか。冥衆のなす處末代に及ぶ。これ有り難きことなり。

其の後、埋む所の室の辺りに堂五宇、室三宇を造り改む。五堂は皆、三所権現の御体を安置するか。金容光と並び、玉顔星と列するのみ。その中阿弥陀堂には大般若經一部を安置す。数の仏具これあり。新堂には五部の大乗経、十部の法華経を安置し、純金の三寸の三所の御体を安置す。この堂に於いては夏衆等夏中の勤め勝げて計ふべからず。六月不断の法華経並びに八講等これあり。凡そ山の躰たらく、委しく記すこと能はず。その峯、雲漢を挟み、その谷、水際に近し。霊草異樹、人間の草木に似ず。奇厳恠石、誠に神仙の遊ぶ所と為す。奇玄奇特、載尽すること叵し。

御在所の東谷に宝池あり。 人跡通せず。 唯だ日域の上人あり、其水を汲む云々。 其味八功徳を具すと云ひ伝へたり。 風吹かずと雖も俄に白浪を畳み、天晴れて静かなれば忽ちに金光を放つ。 或は空中に仏頭の光を顕し、或は谷に地獄の相を現ず。 これ十界互ひに顕はれ、善悪並びに現ずるか。

太男知の麓(大已貴岳の麓)の磐石の上に泉水あり。 上道の人其の水を受け喉を助く。 もし初参の輩知らずしてこれを望み、これを汲めば、尺水忽ちに大浪を立て、その水悉く石上より振失ふ。 人これを見て大いに驚きて発露懺悔すれば、忽ち水盈満して元の如し。

其の石の下の泉の北に一の宝社あり。 不動明王を安置す。

其の東に一の山あり。 其色極めて赤し。 火の色に似たり。 全く余山に似ず。 是を火御子峯(噴火の際の火炎を神とした)と号す。 上道の人に扇を進り、扇の御峯とも云ふ。

其下より沙峯を下り七輿を下り畢りて、大磐石の泉水あり。 玉殿泉と名づく。 水勢幾ばくならずと雖も、参上の人数千人これを汲むと雖も水失せず、大雨下ると雖もその水増さず。

又山頂に池あり。 雨池と号す(奇異、石の泉水の如し)。 傍に堂宇あり、室一宇、三所の御躰を宝社を安置す。

其を下て幾ばくならずして滝あり。 高滝と号す。 人通ること無く、その長幾ばくかを計れず、万仭を計る。 その滝凡愚の計る所にあらず。 浄水の落ち下る形、白雲の聳くが如し。 赤光しばしば現じて明王の火炎かと疑ふ。 これを見て涙留まらず、旡始の罪障自ら滅するか。

其の次の石室を立ちて坂を下れば、一の岳あり。 藁履御峯と名づく。 上道に藁履を進る。 小社ありて、多門天を安ず。

 

次に又一つの霊験ある宝社あり。 檜新宮と号す。 垂迹は禅師権現にして、本地はこれ地蔵菩薩なり。 建立の人は乃美郡軽海郷(小松市辺りか)の松谷澄に住む如是房と言う人なり。 崇め奉る後二百歳に及べり。 錬行の輩、此の所に来集して精進し、この宝社に勤行す。 夏衆の勤行、注し尽くこと叵し。 五月廿日ころより始りて八月彼岸に至ちて終る。 三時の懺法は、七月十七日より同じく廿三日夜半に至る七ヶ日夜程、花香の燈を断たず、不断の法花観音経大般若経一部を転読し奉り、舎利供一座曼陀羅供を供養し奉る。 地蔵会は二十四日朝の勤仕なり。

宝社二宇あり。 一宇は小白山大山御躰御坐し、一宇は太男知禅師権現御躰にして金銅多く御坐す。 閼伽の器十二膳、鈴独鈷五胡、十部の法花経、大般若一部、紺泥の金光明経、両界曼陀羅各一鋪、香呂一枚、鰐口一つ、隨求の形の木螺一つ。 堂は六間二面、一宇の上房は五間二面、政所は五間、美乃蓋繋けは三間、一宇の世間の具は巨多なり。 堂には舎利塔二基に舎利二粒あり。 金迦羅・勢多伽各一躰これを安置し奉る。

これより一里下りて、壺の水を汲む。 道の下向の人の料なり。 而してその水を汲む道の右に一の大石あり。 高く峙ちて往復に煩ひあり。 ここに行尋と号し、塩絶する行人あり。 かの水を汲むに峙つ石煩ひあるが故に、咒力を以てこれを加持するに、金剛童子この石を投げ、その石道の辺にこれあり。 その後、護応石と名づく。 上下向の人、皆これを見て手をこれに触れ、願ひて云「たしかに金剛童子の御手を触れ給ふ石なり、願はくは得脱の縁となりたるか」と云々。 御山の霊験は殊勝の故に、行人の咒力は莫大なるものか。 凡そこの行尋は五の不思議を現ずる行者なり。

次に坂を下り畢れば、一の王子あり。 両神と云ふ。 其の神は蛇躰王(竜神)の垂迹なり。

次に宝社あり。 加宝と名づく。 虚空蔵菩薩の垂迹なり。

次に大河の上に大縄を以て両岸にこれを結び付け、轆轤(滑車)を構ふ。 人を乗せてこれを渡す。 葛籠の渡と名づく。

 

[是ヨり中宮の分なり] 又一の勝地あり。 崇山八方を周りて、形は蓮華の葉に似たり。 地勢峙ちて三岳の如し。 宝社其の上に立つ。 是を笥笠の中宮と号す。 本地は如意輪なり。 神殿は三間一面、拝殿は五間三面、彼岸所は七間二面、又小社は五所なり。 又七間二面の講堂あり。 本仏は大日如来なり。 五尺の洪鐘これあり。 又三間一間の殿あり。 又新宝殿三間一面なり。 金峯山・小白山・不動山御坐す。 三間四面なり。 常行堂は、本仏は阿弥陀なり。 三間一間なり。 法花三昧堂は、本仏は普賢菩薩なり。 三間一面なり。 不動堂あり。 夏堂あり。 鐘楼あり。 冬見の子孫は次第の執行を伝ふ。 当時十一代の守目兼延なり。 春見の子孫は次第の神人なり。

荒御前中宮の下に橋あり。 一橋と名づく。 その岸高くして、未だ何十丈なるか計れず。 これを渡るに余念なく、敢へて横目せず、偏へに権現を念じてこれを渡る。

其の次に社あり。 酒殿と号す。 大瓶の跡あり。

又橋あり。 濁澄橋と名づく。 かくの如く山内に惣て橋十所にあり。 躰たらく前の如し。

 

[此より佐羅宮の分なり] 又一の宝社あり。 佐羅大明神と名づく。 本地は不動明王なり。 天元五年(壬午)始て宝殿を造る。 小社(普賢文殊)は早松・並松(米持金剛童子なり)なり。 台子の滝六所の御子あり。 本仏は大日如来なり。 長保元年(己亥)(二宇あり。五間二面なり。講堂一宇これを造り始む)。

又一社あり。 六所堂と名づく。 二宇は温屋なり。

又一社あり。 境明神と名づく。 小豆沢は平岩なり。

 

[是より別宮の分なり]

又宝社あり。 三間一面。 禅頂別宮と名づく。 拝殿は五間二面。 渡殿は三間。 小社二宇あり。 五間二面の講堂あり。

 

一 白山本宮(本地は十一面観音なり)は霊亀元年に陮他に現じ給ふ。 殊に勅命ありて、四十五宇の神殿仏閣を造立せらる。 若干の神講田を免じ奉られ、鎮護国家の壇場と定め置かる。 嘉祥元年(戊辰)なり。 凡そ公家の造り替への屋々は、宝殿と拝殿と彼岸所なり。

本宮の社に、政所あり。 大倉・本所倉・傍官倉あり。 荒御前(本地は毘沙門なり)・糟神・滝宮(本地は不動なり)あり。 おのおの宝殿は三宇なり。 拝殿も同じ。 祓殿あり。

 

禅師宮(本地は地蔵なり)に、宝殿・拝殿あり。 講堂・剣の講堂・西堂・東堂・十一面堂(法花常行堂)・新十一面堂(五堂)・馬頭堂・新三昧堂等あり。 御内には八堂なり。 鐘楼・武徳殿・五重塔・四足門・廻廊等四十余の舍は屋内なり(委しくは造営の注文にこれあり)。

 

小神の分(九所の神の分なり)は、不動天(和佐谷にこれあり。宝殿と拝殿あり)・岩神(馬場谷にこれあり)・三戸明神(船岡平等寺境にこれあり)・岩坂(宮尻にこれあり)・弓原(井口にこれあり。糟神なり。白山にこれあり。異説これに入る)・志津原明神(山内の広瀬にあり)・高峅(能登鈴モズノ白山にあり)・佐那武(大野庄にあり)・能生白山(越後にあり)なり。

 

凡そ本宮の王子・眷属の社は三ヶ国に充満せり。

佐那武(大野庄にこれあり)には拝殿と講堂あり。 王子の五所は白早取なり(五所宮なり)。 大宮は毘沙門なり。 内宮は不動なり。 小白山(小河にこれあり)あり。

 

三の宮(本地は千手なり)に、宝殿・彼岸所(五間三面)・講堂(五間四面。本仏は大日なり)・鐘楼あり。 小社は小禅師あり。 次に大行事あり。

 

八幡宮(本地は阿弥陀なり)に、宝殿(尺迦如来あり)・拝殿・結縁寺(一間四面)あり。 三間二面の礼堂あり。 鐘楼あり。 宝蔵。 春日社に宝殿・拝殿あり。

 

金剱宮に、宝殿・講堂(大日如来あり)・宝蔵・三重塔・鐘楼あり。 荒御前・糺宮・大行事・乙剣あり。

 

岩本宮に、宝殿・拝殿・講堂(五間二面。本地は大日なり)・鐘楼あり。 水宮あり。 小社巨多なり。 但奥宮に白鳥と云て尼神なり。 菅生は北山にあり。

 

火御子に、宝殿・拝殿あり。

 

凡そ本宮の分の神殿仏閣は、越後・能登・加賀の三ヶ国に充満せり。 委しくは注せざるか。 惣て北の六道は白山の敷地なり。 加賀の国は敷地の中の敷地なり。 [已上は本宮の王子・眷属なり]

凡そ白山本宮は延喜神明帳に入る。三十三年に一度の御造替と云々。国司の重任の劫を募りて、造行の事をなす。公家の御大営の社壇なり。国司の神拝の勅使倍従は北陸道に於いて、この社を限るものなり。本宮と号するは禅頂の本宮なるが故也。神主は寛弘(1004年から1012年)より以来、上道氏なり。始々の神人は守部と椋の両流なり。共に虫丸の末裔なり。長吏は藤氏の末流あんり。院主は順次の功労なり。禅定の御体の本は木仏なり。禅房の聖人、その御体を本堂にこれを居ゑ奉る(根本は玉殿の岩屋に化現の御姿を木をきざむで居ゑ奉るが故に、岩屋をば古所と名くると云々)。南巌房の勧進にて、奥州の秀衡は五尺の金銅像をこれを冶鋳し奉る。小白山の御体は長滝寺の竜明房、五尺の金銅像を勧進す。

三所権現の御宝殿は本馬場たるに依りて、造営し奉るの所なり。小白山(別山)の御宝殿計を越前馬場より頻りに申し請くるの間、近比これを避り渡さると云々。

三ケの馬場は加賀の馬場、越前の馬場、美乃の馬場あんり。加賀の馬場は本馬場なり。三ケの馬場より参り合ふの時は、加賀の馬場の先達、御戸を開くなり。御山を進退し、諸事を沙汰するは加賀の馬場の沙汰なり。

加賀の下山の七社は、白山・金剱・岩本・三の宮(これを本宮四社と号す)、中宮・佐羅・別宮(これを中宮と号するなり)、惣じて七社と云ふ。

越前の下山の七社(平泉寺と号す)は白山の三所権現をこれを崇め奉る。 禅頂の三所の御事なり。

美乃の下山は、長滝寺の七社なり(石同代と云ふ社まで女人は参詣すと云々。加賀は中宮まで参詣す)。

禅頂座主の始め、一蓮の君より唯佛まで四代は、本は京人なり。同じく別当の次第なり。三山の馨台は、横山大夫橘成広(不明)、見付の嶋に渡んとの願をなし、これを施入し奉る。

別山の施入の物は坂東信講師(不明)の大刀細身の一振なり。七道を巡りたり。取る人は皆死すと云々。

又出羽の宛君の大刀一振なり(装束の形に鞘垂ありと云々)。

  • 白山の五院は柏野(中宮の末寺なり)・温泉寺・極楽寺・小野坂・大聖寺なり。或は八院の内に五院あり。余の三院は後に建立すと云々。五院は山代の庄の内か。
  • 中宮の八院は、護国寺・昌隆寺・松谷寺・蓮華寺・善興寺・長寛寺・涌泉寺・隆明寺なり。(隆明寺の外の七院は軽海郷の内なり)。三ケ寺は那谷寺(岩屋寺と号す)・温谷・栄谷なり。(書本にいふ)右は千妙聖人に依りて中宮の長吏隆厳(不詳)これを注すと云々。(ただし私書副の分、少々これあり。)

白山の宮を一宮と名くる事は、加賀の国の越前の国の加賀郡たるの時も越前の一宮なり。然る間、弘仁十四年(癸卯823年)加賀の国の越前の国の加賀郡たるの時も、越前の一宮なり。菅生は(加賀市の菅生石部神社)越前の三宮たるの処、加賀を国に立つの時、加賀の二宮となす。気比は二宮たるの処(敦賀市の気比神社)、加賀を国に立つるの間、越前の一宮となす。凡そ国々に必ず惣社・一宮とて二社あり。加賀の国には白山は一宮なり。府南は惣社なり。府南を惣社と名付くる事は毎月晦日毎に、国の八社に詣でて御幣を奉り、これを礼し奉る。かの八社を廻る事、その煩ひあるの間、一所にこれを祝ひ奉るが故に、府南を惣社と名付くるなり。而るに府南を一宮と号し、白山と争ふ事あり。そのかの八社の内に気比(越前の一宮なり)あり。加賀を国に立つるの後は、越前の一宮となすなり。気多(能登の一宮なり)白山(加賀の一宮なり)、この三ケ国の三社を祝ひ奉り、惣社と号するが故に、一宮と称するか。また府南は加賀を国に立つるの時、始めてこれを祝ひ奉るの間、加賀の一宮と称するか。二説ともに以てその謂れなきものなり。ただし能登の国は越中の能登の郷なり。聖武天皇の御時、神亀年中(724年から729年)に国を立つるの間、越中の二宮の二神は、越中の一宮と成る也。気多は能登郡の時も一宮たるの間、国を立つるの日もなほ能登の一宮なり。かたがた以て白山は一宮の条分明なり。

ただし越中に新気多を祝ひ奉る。二神と一宮を諍ひ、二神は力なきの間、新気多、一宮と成ると云々。

  • 国の八社といふは、白山・菅生・府南(気比と気多と白山の三社なり)・熊田(粟にあり)・加茂(安宅にあり)・神府(小河にあり)・佐那武(宮越にあり、金沢市)・八幡なり。

白山の七社の本地垂迹の事。

本宮(御位は正一位なり。本地は十一面観音なり。垂迹は女神なり。御髻と御装束は唐女の如し)。金剣の宮(白山の第一の王子なり。本地は俱利伽羅明王なり。垂迹は男神なり。御冠に上衣を着す。銀弓と金箭を帯し金作の御大刀はかせ給ふ)。

三宮(白山の第三の姫宮なり。本地は千手観音なり。垂迹は女形なり。御装束は本宮の如し)。

岩本の宮(第二王子なり。禅師権現なり。本地は地蔵菩薩なり。垂迹は僧形なり。)

中宮(本地は如意輪なり。垂迹は本宮の如し。ただし童形か。児宮と云々。ただし根本は如意輪なり。後に三所を祝ひ奉る)。

佐羅の宮(本地は不動明王なり。垂迹は金剣の宮の如し。早松は普賢と文殊なり。二の童子の本地か)。

別宮(本地は十一面と阿弥陀と正観音の三所権現なり。十一面は垂迹なり。御姿は本宮の如し。阿弥陀は奇眼の老翁なり。神彩甚だ閑静なり。観音は咲を含む。宰の官人なり。銀弓と金箭を帯す)。

譬喩房の阿闍梨、白山の禅頂に参詣して云く(三井寺の人なり)「補陀落の本の栖を振り捨てて如何で茲まで越の白山」

権現の御返事「仏滅の長夜に迷ふ以来の、輪廻の類導かんとて」

又阿闍梨の云く「等覚の位を捨ててこの峯に跡を垂れては幾ら久しき」

権現の御返事「優曇華のつぼみし日よりこの峯に、花の散る世に三度相ひぬる」

又権現の云く「牟尼の日はくれて春秋二千歳、如何で曇華に三度相へるぞ」

権現の御返事「尺迦已後と限りてせばく思ひみよ、三世の仏に相へる我が身を」

  • 白山の本宮の内の鳥居は、樫高(場所不明)の寺中と公方との境に立つ。中の鳥居は、槻橘(石川県白山市鶴来町月橋)の寺中と公方(幕府領)との境に立つ。惣門は神保(不明)の小河に立つ。北陸の往き反りの旅人等、」この惣門にて下馬す。白山に向ひて礼をなしてとほるなり。

 

本云

正応四年1291五月一日書写し畢んぬ。

本云

永和四年1378六月晦日金剣宮下院にて書写し畢んぬ。

時に応永十六年1409五月十九日書写し畢んぬ。

永享十一年1439六月九日加州温谷護法寺護摩堂上閑室において此の本闕如するの間、染筆し了んぬ。

 

 

(終わり)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日は大仏建立を祝して八幡... | トップ | 今日は一粒万倍日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事