明恵上人は「あかあかや、あかあかあかや、あかあかや、あかあかあかや、あかあかや月」と詠まれています。まさに中秋の名月はこれだけ「あかあか」を重ねてもまだ足りないくらいの明るさです。と同時にこれは月輪観といって月輪を心の中に観じて、それをしだいに拡大してゆき最終的には宇宙と自分が一体となる瞑想の境地をあらわしてもいると思います。本来の自他の姿はこのように「あかあか」としたものですよと諭されてもいるのでしょう。
月輪観は満月の掛け軸を前にしてその月輪が自分の心に入りそれが無限大に大きくなり宇宙と自分が一体となりまたその月輪が徐々に縮小して自分の中にかえるという観想です。
さきの明恵上人も多くの名月の歌をお詠みになっていますがその中でも月輪観そのものを表わしているとおもわれるのは
・「くまもなく 澄める心のかがやけば わが光とや 月思ふらむ」です。自分の心が月と同じくらいに澄み渡って光っているので月が自分の光かと間違うくらいだというものです。
そのほかの明恵上人の歌も載せておきます。
・「照る月を いとひて闇に入る人は 道のしるべに何にかはせむ」
「この夜より あはれと思へ 秋の月 まよはむ闇の みちしるべとて」
・「心月の澄むに 無明の雲晴れて 解脱の門に 松風ぞ吹く」
・「月影は いずれの山と わかじかど 澄ます峯にや 澄みまさるらん」。この歌は
・「月影のいたらぬ里はなけれども ながむるひとの心にぞ住む」(月影があらゆる里にさすように、全ての人の心には仏性が宿っていて仏の光を受けて光っていますよ)という法然上人の歌にも通ずるものがあります。
慈雲尊者も月の歌を残しておられます。
・「法の月 この日の本にてりそひて ながきや闇路の あらなくもがな」
・「たのみある 身にぞありける 月の国の 光を添ふる 日の本の世々」
・「正法は 目に見ても知れ 春のはな 秋も最中(もなか)の小夜ふくる月」(春の花、中秋の名月を見るだけでも正法がわかる)
・「月しろし 吹く風すずし 万代(よろずよ)に ながめ尽きせぬ をのがあめつち」
・「花にそひ 月にともなふ 人ごころ 心の外の 御法(みのり)ならねば」
・「法の道 常にさやけき月もあるに やみとや人の目をふたぎ行く」(満月が常に照らしているような正法の真只中にいるのに闇の世とみるのは人の目が曇っているからである)
・「(摩多体文(梵字)を書してその奥に)「月の国の 御法を添えて日本(ひのもと)の世々に絶えせぬ光ともがな(仏様の国の教えを梵字により伝えて日本の世々の光としたい)」
・「(「十善これ菩提の道場」と大書してそのわきに)「みてもしれ ふもとのさくら 嶺の月 とりも直さぬ己が面目」
月を覚りの姿ととらえ、「悟れば自分も月も一つ」といっておられます。
私も十数年前太龍寺で求聞持を行じているとき丁度中秋の名月があり、岩の上でこの名月を拝ししっかりと胸に刻みお堂に帰り堂の中で満月が一杯になっている観想ができ、心行くまで月輪観を修せた有難い思出があります。
密教行者の行う『五相成身観』でも常に心に満月をイメージします。また金剛界曼荼羅の仏様方も皆な満月の中に坐しておられます。曼荼羅では胎蔵界の諸尊が蓮華に坐しておられますがこれは慈悲を表わすのに対して金剛界の諸尊は月輪に坐しておられます。これは仏心円満とか智徳円満を表わします。
満月はじっと見ていると本当に不思議な気持ちにさせられます
月は密教では重要な役割を担っています。
覚鑁上人の「一期大要秘密集」に「月は自分の心の徳を顕している」として月輪観を行ずるときの参考として「しばらく十種をあげて観心の要となさん」とされ月に見る自分の心の十種の徳を書いておられます。以下引用します。
「・心月円満の観・・月の円満なるが如く自心も欠くることなし。万徳を具足し、種智を円満せり。月の円形を見て心の満体を観ぜよ。福智を円満せる双円の性佛 なり。
・心月潔白の観・・月の潔白なるが如く自心も白法なり。永く黒法を離れて常に白善を興す。月の白色を見て心の白質を観ぜよ。自性浄白にして性徳の本源なり
・心月清浄の観・・月の清浄なるが如く自心も無垢なり。自性清浄にして無貪無染なり。月の浄徹を見て心の浄性を観ぜよ。本より貪染なし、もとこれ浄佛なり。
・心月清涼の観・・月の清涼なるが如く自心も熱を離れたり。慈悲の水を灌いで瞋恚の火を消せ。月の涼光に触れて心の慈水を澄ませば無量の恚炎、一時に消滅す
・心月明照の観・・月の明照成るが如く自心も照朗なり。本より無明を離れて常にこれ遮那なり。心月臆に澄む、五障なんぞ暗からん。円鏡意をみがいて光明遍く 照らす(自分の心も奥底から明るい光を遍く投げかけており重い罪障も 消す)
・心月独尊の観・・月の独一なるが如く自心も独尊なり。諸仏の尊ぶところ萬法の帰するところなり。心殿は比なき心王の如来、識都に並び居するは心数の眷属な り。(自分の心も諸仏のおわす神殿であり、自分の心の本体も如来であ り、自分の心の作用も諸仏の働きである)
・心月中道の観・・月の中に処するが如く自心も辺を離れたり。恒に中道を極めて永く辺執を越えたり。顕教の辺を離れて真言の中に住す。応佛の国を過ぎて法身 の宮に入る
・心月速疾の観・・月の遅からざるが如く自心も速疾なり。秘密の輪を転じて刹那に断惑し心を浄土に懸くれば十方(十方に浄土があること)遠からず、神通の車に乗じて須臾に成仏す(月と同じように自分の心も速い、真言秘密加持により即身成仏する)
・心月巡転の観・・月の巡転するが如く、自心も無窮なり。心水に還り入りて利物の波をおこす。正法の輪を転じて邪迷の闇を破し、万徳無窮にして二利断ゆることなし。
・心月普賢の観・・月の普く現ずるが如く自心も遍く静かなり。化縁水静かなれば普ねく万機に浮かぶ。一体を分たずして九界(十界のうち、仏界以外の、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅 ・人間・天上・声聞 ・縁覚・菩薩)の前に現じ、多身を仮らずして十方の土に臨む」
月輪観は満月の掛け軸を前にしてその月輪が自分の心に入りそれが無限大に大きくなり宇宙と自分が一体となりまたその月輪が徐々に縮小して自分の中にかえるという観想です。
さきの明恵上人も多くの名月の歌をお詠みになっていますがその中でも月輪観そのものを表わしているとおもわれるのは
・「くまもなく 澄める心のかがやけば わが光とや 月思ふらむ」です。自分の心が月と同じくらいに澄み渡って光っているので月が自分の光かと間違うくらいだというものです。
そのほかの明恵上人の歌も載せておきます。
・「照る月を いとひて闇に入る人は 道のしるべに何にかはせむ」
「この夜より あはれと思へ 秋の月 まよはむ闇の みちしるべとて」
・「心月の澄むに 無明の雲晴れて 解脱の門に 松風ぞ吹く」
・「月影は いずれの山と わかじかど 澄ます峯にや 澄みまさるらん」。この歌は
・「月影のいたらぬ里はなけれども ながむるひとの心にぞ住む」(月影があらゆる里にさすように、全ての人の心には仏性が宿っていて仏の光を受けて光っていますよ)という法然上人の歌にも通ずるものがあります。
慈雲尊者も月の歌を残しておられます。
・「法の月 この日の本にてりそひて ながきや闇路の あらなくもがな」
・「たのみある 身にぞありける 月の国の 光を添ふる 日の本の世々」
・「正法は 目に見ても知れ 春のはな 秋も最中(もなか)の小夜ふくる月」(春の花、中秋の名月を見るだけでも正法がわかる)
・「月しろし 吹く風すずし 万代(よろずよ)に ながめ尽きせぬ をのがあめつち」
・「花にそひ 月にともなふ 人ごころ 心の外の 御法(みのり)ならねば」
・「法の道 常にさやけき月もあるに やみとや人の目をふたぎ行く」(満月が常に照らしているような正法の真只中にいるのに闇の世とみるのは人の目が曇っているからである)
・「(摩多体文(梵字)を書してその奥に)「月の国の 御法を添えて日本(ひのもと)の世々に絶えせぬ光ともがな(仏様の国の教えを梵字により伝えて日本の世々の光としたい)」
・「(「十善これ菩提の道場」と大書してそのわきに)「みてもしれ ふもとのさくら 嶺の月 とりも直さぬ己が面目」
月を覚りの姿ととらえ、「悟れば自分も月も一つ」といっておられます。
私も十数年前太龍寺で求聞持を行じているとき丁度中秋の名月があり、岩の上でこの名月を拝ししっかりと胸に刻みお堂に帰り堂の中で満月が一杯になっている観想ができ、心行くまで月輪観を修せた有難い思出があります。
密教行者の行う『五相成身観』でも常に心に満月をイメージします。また金剛界曼荼羅の仏様方も皆な満月の中に坐しておられます。曼荼羅では胎蔵界の諸尊が蓮華に坐しておられますがこれは慈悲を表わすのに対して金剛界の諸尊は月輪に坐しておられます。これは仏心円満とか智徳円満を表わします。
満月はじっと見ていると本当に不思議な気持ちにさせられます
月は密教では重要な役割を担っています。
覚鑁上人の「一期大要秘密集」に「月は自分の心の徳を顕している」として月輪観を行ずるときの参考として「しばらく十種をあげて観心の要となさん」とされ月に見る自分の心の十種の徳を書いておられます。以下引用します。
「・心月円満の観・・月の円満なるが如く自心も欠くることなし。万徳を具足し、種智を円満せり。月の円形を見て心の満体を観ぜよ。福智を円満せる双円の性佛 なり。
・心月潔白の観・・月の潔白なるが如く自心も白法なり。永く黒法を離れて常に白善を興す。月の白色を見て心の白質を観ぜよ。自性浄白にして性徳の本源なり
・心月清浄の観・・月の清浄なるが如く自心も無垢なり。自性清浄にして無貪無染なり。月の浄徹を見て心の浄性を観ぜよ。本より貪染なし、もとこれ浄佛なり。
・心月清涼の観・・月の清涼なるが如く自心も熱を離れたり。慈悲の水を灌いで瞋恚の火を消せ。月の涼光に触れて心の慈水を澄ませば無量の恚炎、一時に消滅す
・心月明照の観・・月の明照成るが如く自心も照朗なり。本より無明を離れて常にこれ遮那なり。心月臆に澄む、五障なんぞ暗からん。円鏡意をみがいて光明遍く 照らす(自分の心も奥底から明るい光を遍く投げかけており重い罪障も 消す)
・心月独尊の観・・月の独一なるが如く自心も独尊なり。諸仏の尊ぶところ萬法の帰するところなり。心殿は比なき心王の如来、識都に並び居するは心数の眷属な り。(自分の心も諸仏のおわす神殿であり、自分の心の本体も如来であ り、自分の心の作用も諸仏の働きである)
・心月中道の観・・月の中に処するが如く自心も辺を離れたり。恒に中道を極めて永く辺執を越えたり。顕教の辺を離れて真言の中に住す。応佛の国を過ぎて法身 の宮に入る
・心月速疾の観・・月の遅からざるが如く自心も速疾なり。秘密の輪を転じて刹那に断惑し心を浄土に懸くれば十方(十方に浄土があること)遠からず、神通の車に乗じて須臾に成仏す(月と同じように自分の心も速い、真言秘密加持により即身成仏する)
・心月巡転の観・・月の巡転するが如く、自心も無窮なり。心水に還り入りて利物の波をおこす。正法の輪を転じて邪迷の闇を破し、万徳無窮にして二利断ゆることなし。
・心月普賢の観・・月の普く現ずるが如く自心も遍く静かなり。化縁水静かなれば普ねく万機に浮かぶ。一体を分たずして九界(十界のうち、仏界以外の、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅 ・人間・天上・声聞 ・縁覚・菩薩)の前に現じ、多身を仮らずして十方の土に臨む」