福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神仏一体でのご利益・・1

2017-07-30 | 頂いた現実の霊験
神仏一体でのご利益・・1

善悪因果集(蓮盛著、仏教説話集成、叢書江戸文庫16、国書刊行会)より
一、 伊勢大神宮利賞の事 
寛文年中、山城国友岡村と言ふ処の者ども、伊勢講を取り立てあまた詣ける中に、ある女房、五歳になりける男子のありしを、道のわずらひを思ひて家に置きて出でけるに、此子跡にてあくがれ泣きて一日を経て死ににけり。父男は子の死にける事の悲しき上に、母が往向き、火の穢れ、いかなる難もありぬべしとて、心さらに成りけり。さてこの子をば下人に持たせ野辺に送りにけり。村の者ども家々より参宮しける事なれば、穢れを忌みて哀れと問ひきたる者なければ、父いとど悲しみけるも理なり。七日の後、参宮のともがら、下向しけるに、彼の死にける子、母に従て帰りければ、父之を見て、「やれその子は何として来るぞ」と問ふ。母答えて云ひけるは「発足の翌日、土山まで至りけるに、辰の刻ばかりに此の児追ひきたりしほどに、あやしく思ひ、何としてここまで来たりつるぞと問ひしに、あまりに母の恋しうて泣きいたれば、僧の一人来たりて、いざ母の所へつれゆかうぞとて、ここまでつれてをはしたるぞと云ひつる間、さてその御僧はとて、あたりを尋見けれども、往方しらざりけり」といふ。父猶決せず、「正しく死して野辺の土中に納めけるものを。其れはもし狐などの誑かしたるにはあらずや。油断なさせそ」といふ時、下人が云ひけるは「我思い合わすることあり。彼お葬りける時、棺へ入りて持ちける迄は屍と思ひしが、二三町往ければ殊の外に軽くなりて、中に杭など入りたるごとく鳴りけるほどに、あやしくは候ひしかども、卒爾の事申しては如何と存じ、先納て帰つるなり。願は墳墓を開いて見給へかし」といふ。主人、尤也とて、頓て往きて開きみるに、屍はなくして大神宮の御幣あり。扨ては神明の御利益なりけりとて、親類ども招集て悦祝ひけり。此の事を伝へ聞く輩、或はすみやかに参宮をつとめ、或は始めて講をとりたてなどして、信心を増すもの多かりけり。

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