弁顕密二教論
智度論の第九にいわく「佛に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。この法性身は十方虚空に満ちて無量無辺なり。色像端政にして相好荘厳せり。無量の光明、無量の音声あり。聴法の衆もまた虚空に満てり。これは衆もまたこれ法性身にして生死の所見にあらざることを明かす。常に種々の身、種々の名号を出だし、種々の生処にして種々の方便もて衆生を度す。常に一切を度して須臾もやむときなし。・・・
法身の仏は常に光明を放って常に説法す。しかるを罪を以ての故に見ず聞かざること、たとえば日いずれども盲者は見ず、雷霆らいてい地を振るえども聾者は聞かざるがごとし。かくのごとくの法身は常に光明を放って常に説法したまへども衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照らすときはすなわち所見なきがごとし。かくの如く、衆生の心清浄なるときはすなわち仏を見、もし心不浄なるときはすなわち仏を見ず。
智度論の第九にいわく「佛に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。この法性身は十方虚空に満ちて無量無辺なり。色像端政にして相好荘厳せり。無量の光明、無量の音声あり。聴法の衆もまた虚空に満てり。これは衆もまたこれ法性身にして生死の所見にあらざることを明かす。常に種々の身、種々の名号を出だし、種々の生処にして種々の方便もて衆生を度す。常に一切を度して須臾もやむときなし。・・・
法身の仏は常に光明を放って常に説法す。しかるを罪を以ての故に見ず聞かざること、たとえば日いずれども盲者は見ず、雷霆らいてい地を振るえども聾者は聞かざるがごとし。かくのごとくの法身は常に光明を放って常に説法したまへども衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照らすときはすなわち所見なきがごとし。かくの如く、衆生の心清浄なるときはすなわち仏を見、もし心不浄なるときはすなわち仏を見ず。