第一〇課 人格完成
私たちは誰でも、人格完成の種子たねを、生れながらに持っている(一切衆生ことごとく仏性ぶっしょうあり〔涅槃経ねはんぎょう〕)と仏教は説くのであります。人格完成と言っても、ただの人格完成の程度でなく、あらゆる美徳、技能、智識を備えた円満無欠の人格者になる種子であります。それは賢人、愚人、善人、悪人、男性、女性、大人、子供の差別なく、みな平常に持っている種子であります。これを持っていることを信じたものは朗らかな安心生活が送れ、この種子を育て上げたものが真の成功者であります。
何故ならば、その成功者はどんな幸福にも増した幸福を、永久に享ける資格が持てるのですから。
ところが私たちには、一方、生れながら愚かしさや、迷いごころがあって、この人格完成の種子のあるのを判らないように邪魔しております。たとえ教えられて、持っているはずとは知っても、さて、その育て方の方針がつかないのであります。
天地の広大無辺な存在は、私たちをもその中に引くるめた、一つの大きな生命体であります。この中を縦横に貫いて、すでに立派に完成されている光明体が流れております。その光明体は、常に私たちはじめ天地の間に秘ひそんでいる仏性(人格完成)の種子に呼びかけ、その眠りを覚し、芽を吹かし、自分同様な立派なものにしようと働きかけ、合図をしつづけております。
私たちの中なる仏性の種子も、それを感じてしきりにその光を浴びたがっています。その様子を、日蓮聖人は籠の中の鳥が、空飛ぶ鳥の鳴声を聞いて呼び交わそうとしている趣に譬え、禅家の方では卵の中で、いま孵かえったばかりの小雛が外へ向って呼ぶ声と、外の母鶏が卵の中からその小雛を連れ出そうと殻を啄つつく母鶏の嘴とが、呼吸の合っている(碧巌録〔禅書〕の中にある文句「※(「口+卒」、第3水準1-15-7)啄そったく同時底の機」)のに譬えております。私たちの内にある人格完成の電球と、外にあって私たちの人格を完成させようとする電気の導線とは実はとっくの昔から設備が出来ておるのであります。天地が始まって以来、設備が出来ておるのであります。それは自然の設備であります。この設備が、はじめからなかったら、いくら偉い宗教家でも、救いだの、恵みだのという仕事は絶対に出来ません。仏教の諸先輩たちは、この設備を発見したので、非常な確信を持ち、そこにスイッチを取りつけました。これが仏教における「信仰の仕方」であります。信仰の仕方はスイッチでありますから、これによって救いの電流を通じさせれば、苦もなく私たちの内なる人格完成の電球に灯が点ります。
そこで私たちに、希望のぞみと歓喜よろこびの光が照り出します。