鎮護国家の大法である仁王法をとある人里はなれた山寺に受法にいきました。そこは人家の全く見えない山道を車で延々と上がっていくところでした。こういうところで日々修法していればさぞかし悉地を成就できるであろうとおもわれました。
仁王法を伝授していただきましたがこれは相当な大法であり修するに2時間はかかると思われる修法です。まず修するまでに整理して自分で書き直さなければなりませんがこれがどのくらいの時間を要するか分からないくらい大変な分量でした。
しかし事は緊急を要します。自分なりに大至急書き直し修法できる準備をするつもりです。
それにしても日本にはまだこういうところで秘かに修行している僧がおられるのです。梵字の大家の大阿様も山深い古寺に暮らしておられますし、日本の密教もまだまだ捨てたものではないと思いました。
そしてこういう方々と縁が結べるかどうかということがその人の機根の是非を物語っているにすぎないとも思われました。お大師様に恵果阿闍梨が「冒地の得難きにあらず。此の法に遇うことの易からざるなり( 悟りを得るのは難しいことではない、 ただこの密教の法にあうのが難しいのです)」とおしゃった言葉がありますが、このお言葉を借りれば「冒地の得難きにあらず。ただ師に逢うことの易からざるなり」というところでしょう。
仁王法を伝授していただきましたがこれは相当な大法であり修するに2時間はかかると思われる修法です。まず修するまでに整理して自分で書き直さなければなりませんがこれがどのくらいの時間を要するか分からないくらい大変な分量でした。
しかし事は緊急を要します。自分なりに大至急書き直し修法できる準備をするつもりです。
それにしても日本にはまだこういうところで秘かに修行している僧がおられるのです。梵字の大家の大阿様も山深い古寺に暮らしておられますし、日本の密教もまだまだ捨てたものではないと思いました。
そしてこういう方々と縁が結べるかどうかということがその人の機根の是非を物語っているにすぎないとも思われました。お大師様に恵果阿闍梨が「冒地の得難きにあらず。此の法に遇うことの易からざるなり( 悟りを得るのは難しいことではない、 ただこの密教の法にあうのが難しいのです)」とおしゃった言葉がありますが、このお言葉を借りれば「冒地の得難きにあらず。ただ師に逢うことの易からざるなり」というところでしょう。