・・即身成仏はこの身をも改めずこの土をも動かずして,もし三密の加持の力を被りたるひとならば(仏のお力をお借りして仏の身口意と自分の身口意と一体となれた人ならば),
自心の本不生際を覚りて自心本具の自然覚の知見を顕現するこれを即身成仏という(自分の心も体も不生不滅と覚ることができ自分の中に生まれる前からある仏性を顕在化することができる、これを即身成仏という。)
大日経に成仏を「我覚本不生(われ本不生を覚る)」と説く。大日経疏にこれを釈して「我が自心はもとより不生なりとさとる。すなわちこれ成仏なり。実に覚もなく、成もなし。無始以来の迷悟は我にある。我が自心の本不生をさとるを仏と名ず(自分の身心は過去も原現在も未来も生滅してないと覚ることを仏となるという)。一切衆生はもとより仏なれども知らざるがゆえに生死に迷う。このゆえに迷いが消えれば本よりの悟りが現れる。これを成仏という。・・真言の成仏は一切衆生は皆六大法身本有法然の仏(一切は、宇宙の本質であるア・バ・ラ・カ・キャ・ウン(地・水・火・風・空・識)よりなっている)なればこれを本覚という。自然の覚にして新たに覚さとるにはあらず。
古徳の歌に「覚りとは覚らぬこそは覚りなれ、覚る覚りは覚りではなし」とある。覚りとは自心の本不生を知るまでのことで新たに仏になるのではない。(行者は修法の中の四無量心観で「心本より不生なり、性相空なるが故に」と観想します。即ち「心はもとから生じたり滅したりするものではない、全ての本質もその本質が現れた姿も「空」であるのだから、と観想するのです。ここで心と身は一緒のことをいっています。般若心経もまったく同じことを言っているにすぎません。)
自心の本不生際を覚りて自心本具の自然覚の知見を顕現するこれを即身成仏という(自分の心も体も不生不滅と覚ることができ自分の中に生まれる前からある仏性を顕在化することができる、これを即身成仏という。)
大日経に成仏を「我覚本不生(われ本不生を覚る)」と説く。大日経疏にこれを釈して「我が自心はもとより不生なりとさとる。すなわちこれ成仏なり。実に覚もなく、成もなし。無始以来の迷悟は我にある。我が自心の本不生をさとるを仏と名ず(自分の身心は過去も原現在も未来も生滅してないと覚ることを仏となるという)。一切衆生はもとより仏なれども知らざるがゆえに生死に迷う。このゆえに迷いが消えれば本よりの悟りが現れる。これを成仏という。・・真言の成仏は一切衆生は皆六大法身本有法然の仏(一切は、宇宙の本質であるア・バ・ラ・カ・キャ・ウン(地・水・火・風・空・識)よりなっている)なればこれを本覚という。自然の覚にして新たに覚さとるにはあらず。
古徳の歌に「覚りとは覚らぬこそは覚りなれ、覚る覚りは覚りではなし」とある。覚りとは自心の本不生を知るまでのことで新たに仏になるのではない。(行者は修法の中の四無量心観で「心本より不生なり、性相空なるが故に」と観想します。即ち「心はもとから生じたり滅したりするものではない、全ての本質もその本質が現れた姿も「空」であるのだから、と観想するのです。ここで心と身は一緒のことをいっています。般若心経もまったく同じことを言っているにすぎません。)