今日数日前に掃いた近くの馬頭観音様の祠をとおりかかるともう落ち葉が積もっています。この秋は何度掃いたか数えきれません。明日にもまた掃こうと思います。
そういえば「掃けば散り 払えばまたも ちり積もる 庭の落ち葉も 人の心も」という道歌がありました。自分の心も放っておくと塵だらけになるのは能く分ります。ついついいろいろ下劣な情報に毎日汚染されるのできりがありません。毎日汚染される心を意識して浄めなければ垢がこびり付き取り返しのつかないことになります。自分は毎夕勤行の最後に、漠然とではありますが「今までお世話になった方すべてに」と思い、光明真言を唱えることにしていますがその時は「拘り」が消えて気持ちがスーッとします。出来るだけ多くの方に(当然神仏にも)「感謝の念」を送るのが心の塵を拂う方法としては有効な気がします。
むかし周梨槃特は、愚鈍ゆえに仏道修行が進まなかったのですが、お釈様から、
「『塵を払わん、垢を除かん。』という言葉を四六時中一心に唱えなさい」と言われ、言われるまま、何をする時でも「塵を払わん、垢を除かん。」と唱え続けました。そして遂に「業による「結縛」が塵垢で「智慧」が塵垢を除く方法である」と覚り、十六羅漢のひとりとなったということです。この出典をさがしていたのですが、増一阿含経にあることが分りました。「周梨槃特」は「朱利槃特」と書かれています。
増一阿含経第十一です、「爾時尊者槃特、弟の朱利槃特につげて曰く。「若し持戒不能ならば還って白衣となれ。(還俗せよ)」是の時朱利槃特此の語を聞きおわりて、便ち祇洹精舍門外に詣でて立ち涙す。爾時、世尊、天眼を以て朱利槃特比丘の門外に立ちて悲泣して不能自ら勝つ能わざるを見て、世尊は靜室より經行して祇洹精舍門外に到り朱利槃特に告げていわく「比丘よ。何故に此にあって悲泣するや」。朱利槃特報じて曰く。「世尊よ。兄見て若し持戒不能ならば驅逐、衣を還し須べからく此に住むことなからしむという。是故に悲泣する耳」。世尊告曰。「比丘。畏怖を懐くこと無かれ。我れの無上等正覺を成ずるは卿兄槃特の得道によらず」。爾時世尊、朱利槃特の手をとり靜室に詣でて教えて就坐せしむ。世尊復た教えて掃㨹をとらしめ、「汝誦此の「掃㨹」を誦すべし」。是時朱利槃特誦「掃」の字を得れば忘「㨹」字をわする。若し誦して「㨹」の字を得れば復た「掃」をわする。爾時尊者朱利槃特、誦此㨹掃乃經數日。然此掃㨹復名除垢。朱利槃特復作是念。「何者か是れ「除」、何者是れ「垢」。「垢」とは灰土瓦石。「除」とは清淨也」。復た是の念いを作す。「世尊は何に故に此を以て我を教悔せしや。我今當思惟此義。以思惟此義。復作是念。今我身上亦塵垢有り。我自作喩。何者か是れ「除」何者か是れ「垢」」。彼れ復た是の念を作す、「『縛結』は是れ「垢」、『智慧』は是れ「除」なり。我今、智慧の「㨹」をもって此の結縛を「掃く」のである。爾時尊者朱利槃特は・・・已に解脱し、便ち解脱智を得る。生死已に盡きて梵行すでに立つ。所作已辦して更に復た受胎有ることなし。實の如く之を知り、尊者朱利槃特は便ち阿羅漢を成ず・・・」
いまでも十六羅漢の十六番目には周梨槃特がおまつりされています。