明治以降の教育の大失敗
1,安岡正篤「人間教育をわすれた明治の失敗」
(知識偏重で「見識・器量」を磨く教育をしなかった明治以降の政府)
「・・明治・大正・昭和にかけての学校教育というものが残念ながら人間教育(人間の本質的要素である徳性を磨くこと)をお留守にしてしまった。専ら知識教育・技術教育になってしまったのであります。
明治時代はまだ旧幕府以来の余徳でいわば先祖の財産で暮らせたように、それほど弱点を出さなかった。馬脚を現さなかったのでありますが、しかしその間に、残念ながら「出来た人物」というのは非常に乏しくなりました。専ら高利的・知識的な機械的な人物、才人、理論家が排出したわけであります。・・そこで第一次大戦で日本はほとんど犠牲らしい犠牲を払わずに戦争に便乗して大儲けをした、この時に・・明治から大正にかけての日本の退廃と堕落が一辺に噴出したのであります。・・昭和の初めになって「昭和維新(注、五・一五事件、二・二六事件等に代表される右翼運動)」ということが叫ばれるようになりました、・・ところが明治維新とちがったところは、中心人物たちが・・人間が練れておらぬ、見識とか器量とかいうものはできておらぬ、・・それが転じて満州に反映しました、・・このときに根本的教養の欠如というものがおおきな災いをいたしました。・・(安岡正篤「人間教育をわすれた明治の失敗」)・・」
2,安岡正篤「日本農士学校設立の趣旨」
(明治以降の教育は「卑屈な給料取り」を養成することを目的としている)
「人間に取って教育ほど大切なもののないことは言ふまでもない。国家の命運も国民の教育の裡に存すると古人も申して居る。真に人を救ひ世を正すには、結局教育に須たねばならぬ。然るにその大切な教育は今日如何なるありさまであろうか。
今日の青年は社会的には悪感化を受けるばかりで、その上に殆ど家庭教育は廃れ、教育は学校に限られて居る。そして一般父兄は社会的風潮である物質主義功利主義に識らず識らず感染して、只管子弟の物質的成功、否最早今日となっては卑屈な給料取りたらしめんことを目的に(実は今日それも至難になってきて居る)力を竭して子弟を学校に通はせる。その群衆する子弟を迎へて学校は粗悪な工場と化し、教師は支配人や技師、甚だしきは労働者の如く生徒は粗製濫造された商品と化し、師弟の道などは滅び、学科も支離滅裂となり、学校全体に何の精神も規律も認めることが出来ない。その為に青年子弟は、何の理想もなく、卑屈に陥り、狡猾になり、贅沢遊惰に流れ、義理人情を弁へず、学問や道に対する敬虔の念を失ひ、男児に雄渾な国家的精神無く、女子に純潔な知慧徳操が欠けてしまった。これで我等民族、我等の国家は明日どうなるであろうか。 更に一層深く考へると、なまなか文化が爛熟して、人間に燃える様な理想と之に伴ふ奮闘努力とが消滅し、低級な享楽と卑怯な荀安とを貪って、四の五の言ふ様になってしまうと、かかる階級は救済不可能である。平安の公家達も江戸の旗本御家人共もかくして滅んだ。匡房も嘆じ、吉宗も定信も焦ったのだが、終に如何とも出来なかったのである。かヽる時国家の新生命を発揚した者は、必ず頽廃文化の中毒を受けずに純粋な生活と確固たる信念とを持った質実剛健な田舎武士であった。今日も真底の道理には変化はない。この都会に群る学生に対して今日のような教育を施してゐて何になろう。国家の明日、人民の永福を考へる人々は是非とも活眼を地方農村に放って、此処に信仰あり、哲学あり、詩情あって、而して鋤鍬を手にしつと毅然として中央を睥睨し周章ず騒がず、身を修め、家を斉へ、余力あらば先ずその町村からして小独立国家にしたてあげてゆかうといふ土豪や篤農や郷先生を造ってゆかねばならない。是新自治(面白く言へば新封建)主義とも謂ふべき真の日本振興策である。
これを軽薄な社会運動、職業的な教化運動とは全然異り、河井蒼竜窟の所謂地下百尺の所に埋まって、大事を為さうといふ国家鎮護、社稷永安の道業である。かくて金鶏学院開設以来四年我々は一面思を此処に潜めて、地方農村の蟠踞して国家維新の先覚者、重鎮的人物たるには如何なる学問教養勤労を励むべきかを研究し、その間更に我々の微志は日本の柱石たるべき各本面の国士の方々とも次第に交わりを結んできた。
時勢は最早一刻も偸安を許さぬ。我々は先ず自ら荀安を貪って空理空論して居るべきではない。茲に於いて我々は上述の覚悟を体現すべく、屯田式教学の地を武蔵相模の山沢に探ね、(何となれば此地方は鎌倉武士発祥の処で、武相の兵は天下に当るといはれたものであるから)遂に鎌倉武士の花と謳はれた畠山重忠館跡を択んで此処に山林田畑二十丁歩の荘園を設くるを得た。流石古英雄の卜した処だけあって地形、土質、風光共に得難い勝地である。私は此処に年来寝食を共にして勉道した五六の学人と共に、(日本農士学校)を設けて聊か平素の懐抱を実現してゆきたいと思ふ。
昭和六年四月 」