「・・長安城の中に於いて写し得るところの経論疏等凡て三百余軸、及び大悲胎蔵・金剛界等の大曼荼羅の尊容、力を竭くし財を涸くして趁め遂って図画せり、しかれども人は劣に教えは広うして未だ一ごうをも抜かず(九牛の一毛にも及ばず)、衣鉢竭き人を雇うこと能はず、食寝を忘れて書写に労す、日車返り難うして忽ちに発期迫れり、心の憂い誰に向かってか紛を解かん。空海偶々崑嶽に登って未だ懐に満ことを得ず、天を仰いで屠裂(かなしみさけぶ)すれどもわれを知る人なし。・・」と書かれていて御大師様が如何に唐で苦労されていたかがわかります。
「 越州の節度使に与えて内外の経書を求むる啓」(性霊集)
「日本国求法の沙門空海啓す。空海聞く法の物たるや妙なり。教の趣たるや遠し、これに遇う者は泥を抜けて漢に翔り、之を失うものは天より獄に入る。済度の船筏、巨夜の日月なるものなり。ここをもって儒童迦葉は教風を東に扇ぎ、能仁無垢は法雨を西に濯ぐ。五常これによって正しきことを得、三際これをもって朗然たり。しからずんば盲瞽と与んじて坑に沈み、禽獣と将んじて別くことなからん。孔宣(孔子)席を燸あたたむるに遑あらず。悉達輪宝を脱躧(だっし、すてる)する蓋しこれがためか。これすなわち大雅(高徳の人)大人万生を亭毒するの用心(万民化育する用心)、大覚大雄三界を子育するの行業なり(三界を教化する)。しかりといえどもあるいは行われあるいは蔵る、時の変なり。たちまいにして興りたちまちに廃る、実に人に依れり。時至り人叶うときは道無窮に被らしむ。人と時と矛盾するときは教すなわち地に墜つ。羽に駕し雲に乗りしの前(太古)、人は火、時は水なりしかば(人と時と遇わなかったので)道すなわち蔵る。白馬白象の後(釈尊降誕し中国へ仏教伝来の後)、乳水暗に合いしかば教すなわち行わるがごときに至っては興廃流塞人を待ち時を待つ。伏して顧みればわが日本国は㬢和(太陽)はじめて御せし天、夸父(かふ、太陽と競争したといわれる人)歩まざるの地なり(日本国は太陽の初めて上る所であり、夸父さえも来てないところ)、途経は仲尼まさに浮かばんとして能わざるところなり(『論語集注』に論語の「九夷に居らんと欲す」を釈して「之に居らんと欲する者は、亦た桴いかだに乗りて海に浮かぶの意なり」とあり)、山谷はすなわち秦王いかんと欲して至らざる所の獄なり(始皇帝は石橋を作り日の出る所を見ようとした)南獄は大士の後身にしてはじめて到り(南岳慧思大師の生まれ変わりが聖徳太子)揚江の応真は棹を鼓して船破る(鑑真和上は船で難破された)、海に横たわる鯨鼇(げいごう・鯨と大亀)山の如くに峙って何ぞかって住むことを得ん。風緊かなるときは百尺摧け、吹緩きときは赤馬動かず、日居月諸(毎日)、朝に浴し夕に浴し、東に望み西に望めば碧落波に接われり。海に入る時はただ魚鼇の游樂を見て日月ここに際まんぬ。山に登るときは空しく猿猴の哀響を聴いて寒暑推し移る。いわゆる万死の難、この行これに当たれり。このゆえに好勇憚ってこれを陋む(勇者子路も陋んで来日せず)、乗牛西して東せず(老子も青牛に乗って西に行き日本は来ず)、石室見難く(唐の経書は見難い)貝葉(印度の経典)聞くことまれなるは路の険しきが致すところなり。昔は天后皇帝(則天武后)国信(遣唐使)の帰るによって経論律等を寄せ送れり。しかれどもなお三蔵の中零落するものもっとも多し。好事の道俗(仏教に関心ある道俗)西に望んで腸を断つのみ。空海葦苕(いちょう・日本)に生まれて躅水(ちょくすい・狭い国)に長ぜり、器はすなわち斗筲(としょう・一斗二斗しかない器)、学はすなわち戴盆(盆の載せたように学が狭い)、しかりといえども市に哭するの悲しみ日に新たに(常啼菩薩が泣きながら法を求めた故事)、城を歴るの歎き8善財童子が求法に各地をさまよった故事)いよいよ篤し、大方の教海を决って東垂の亢旱に濯がんとおもう(東の果ての日本の旱に濯ぎたい)。遂にすなわち命を広海に弃すてて真筌(心理の経典)を訪い探る。今見るに長安城の中に於いて写し得るところの経論疏等凡て三百余軸、及び大悲胎蔵・金剛界等の大曼荼羅の尊容、力を竭くし財を涸くして趁め遂って図画せり、しかれども人は劣に教えは広うして未だ一ごうをも抜かず(九牛の一毛にも及ばず)、衣鉢竭き人を雇うこと能はず、食寝を忘れて書写に労す、日車返り難うして忽ちに発期迫れり、心の憂い誰に向かってか紛を解かん。空海偶々崑嶽に登って未だ懐に満ことを得ず、天を仰いで屠裂(かなしみさけぶ)すれどもわれを知る人なし。途遠くして来ること難し、いずれの劫にか更に来らん。嗚呼何の計かあらん、それ重舶の一日千里するとことは猛風の力なり、遍覚の虚しく往きて実て帰るは大王の助けなり(玄奘三蔵が印度から多くの経典を持ち帰れたのは高昌國王のおかげ)、日月に臨んで水火を得、鳳凰に附いて天涯に届る、感応相助くるの功妙なるかな。伏して惟んみれば中丞大都督節下、天粋気を縦して岳瀆挺生たり(五岳・四瀆より気を受けて他を抜いている)、且は儒、且は吏、道を綜べ釈を綜べたり(儒教・官吏の道に達し、仏教も理解している)、班馬を弾圧して金のごとくに声し玉のごとくに振るう(文章は班固や司馬遷よりも上手く金・玉の鳴る音のごとし)、回賜を并せ呑んで珪璋瑚璉也(顔回・子貢よりもすぐれており、品格が貴い)、上帝徳を簡んで人の父母(節度使)と為す。松きん子の如くに視て鸞雉降り馴れたり(松竹の色を変じないように節操が正しく人民を我が子のように見るので鳥にまで徳が及んだ)。氷霜犢を留めて五袴洋々たり(真白な心は魏略にある時苗という人が任地で生まれた犢を残して去ったという故事のように潔白である)。動くときは景を踏み風を逐うもの竜のごとくに踊り、星の如くに散ず。住まる時は鼎を扛あげ、鉄を索にして雲の如く繞り、霧の如くに合う。今を見れば北辰の阿衡たり(中心の宰相である)。古に准ふれば南甌(なんおう)の垂拱たり(南越の東甌王が漢帝をよく助けたので漢帝は手を拱いていてもよかったとの故事)。謂つべし「 観音の一身付属の四衣なり」(観音経でいう観音様の化身としての宰官身)と。法の流塞ただ吐納に繋れり(いうか言わぬか、にかかっている)。伏して願わくはかの遺命を顧みてこの遠渉(えんしょう)を愍み三教の中、経・律・論・疏・伝記乃至詩・賦・碑・銘・卜・医・五明所摂の教えのもって蒙を発き、物を済うべきもの多少、遠方に流伝せしめよ。これすなわち大士の経営するところ,小人の意はざるところなり。たまたま仰を遂げれば(渇きにも似た望みが叶ったならば)戊績(ぼせき・大功績)英声、肌骨に刻鏤し山海の霈沢(はいたく・深恩)万劫に身を粉にせん。一には節下の修福何事かこれに過ぎん。二つには迷方の狂児忽ちに南を覚らん。今渇法の至願に勝えず敢えて丹款を竭す、軽しく威厳を瀆して流汗戦越す。謹んで奉啓以聞す。不宣謹んで啓す。
元和元年806四月‥日日本国沙門空海啓す。
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