今日保元元年1156、4月29日は清盛が高野山根本大塔の再建を果たし、座主寛遍が導師となり開眼供養した日です。この後、7月には保元の乱が勃発しますが、清盛は戦功により播磨守となっています。
しかし清盛はこうして高野山に寄進したり、厳島神社を造営し平家納経を納めても子孫はあっという間に滅亡してしまいました。瞬間的には清盛自身は栄達を極めてお陰があった様に見えますがそれも一瞬の夢でした。なにか割り切れなさを感じます。孫の安徳天皇が前代未聞の入水崩御されたことなどとても尋常ではありません。
因縁といえばこの大塔で今度は文治二年(1186)四月二十二日、頼朝が平氏怨霊追善大法要を行っています.。
高野春秋に「(文治二年(1186)四月)二十二日、平氏怨霊追薦の大法事を大塔に於て執行。是宣に依る也。院宣に偁ふ、平氏の一類、滅亡せむ處自己逆心の為と雖も、且く遺恨を含む歟。其の怨霊を宥めんが為、高野山に於て御帛の法事執行せしむべき云々。・・大師曰く、我が法隆遅の時、緇素交て我が法を興す。乃至、我恩に報ぜん者は密教の寿命を守護し龍華の三庭に開かしむ云々(弘法大師行状絵巻)」」
頼朝はこのほかにも東大寺再建なども行い功徳を積もうと努力していますが子供の頼家も実朝も暗殺されます。大姫は夫を殺され、乙姫も夭折し、家系は断絶します。
やはり達磨大師の喝破されたように功徳は「無功徳」なのでしょうか。