福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

発菩提心論和訳

2020-07-20 | 諸経
発菩提心論和訳を載せます。発菩提心論は、金剛頂瑜伽経にもとずき菩提心を発起し月輪観・三密観・五相成身観等により完全な覚りを求めるべきことを説いています。
発菩提心論(金剛頂瑜伽の中に阿耨多羅三藐三菩提心を発す論または瑜伽忽持教門に菩提心の観行を修持することを説く義と名づく)龍猛菩薩造。大興善寺の三蔵沙門大広智不空 奉詔訳。
「大阿闍梨(金剛薩埵)云はく、もし上根上智の人ありて、外道・二乗の法をねがわず、大度量あつて勇鋭にして惑なからん者、宜しく仏乗を修すべし。
 当に是の如くの心を発すべし。我れ今、阿耨多羅三藐三菩提を志求し、余果を求めじと誓心決定するが故に、魔宮震動し、十方の諸仏みなことごとく証知したまふ。常に人天に在りて勝快楽を受け、所生の処に憶持し忘れず(如何なるところに生まれようとも悟りを求める心を失わない)。
もし瑜伽の中の諸菩薩の身を成ぜんと願ふ者をまた発菩提心と名づく。何とならば、次いでたる諸尊みな大毘盧遮那仏身に同なり。人の名官を貪ずる者は、名官を求むる心を発して、名官を理むる行を修す、もし財宝を貪ずる者は、財宝を求むる心を発して、財物を経営する行を作すが如し。凡そ人の善と悪とをなさんと欲するには、みな先ずその心を標し、而して後にその志を成ず。所以に菩提を求むる者は、菩提心を発して菩提の行を修す。
 既に是の如くの心を発し巳つて、須く菩提心の行相を知るべし。その行相とは、三門をもつて分別す。諸仏菩薩、昔、因地(悟りの前)に在して是の心を発し巳つて、勝義・行願・三摩地を戒とす。乃し成仏に至るまで、時として暫くも忘るることなし。惟し真言法の中にのみ即身成仏するが故に、是れ(真言独特の)三摩地の法を説く。諸教の中に於て闕して書せず。一には行願、二には勝義、三には三摩地なり。
行願。初めに行願とは、いわく、修習の人、常に是の如くの心を懐くべし。「我れ当に無余の有情界を利益し安楽すべし」と。十方の含識(有情)を観ること、猶し己見の如し。言うところの利益とは、いはく、一切有情を勧発してことごとく無上菩提に安住せしむ。終に二乗の法をもつて而して得度せしめず。今、真言行人応に知るべし、一切有情はみな如来蔵の性を含し、みな無上菩提に安住するに堪任せり、と。是の故に、二乗の法をもつて而も得度せしめず。故に『華厳経(如来出現品)』に云はく、「一衆生として而も真如智慧を具足せざるはなし。但し妄想顚倒の執著をもつて而も証得せず。もし妄想を離れぬれば、一切智(始覚)・自然智(本覚)・無礙智(始本不二)、則ち現前することを得」と。 言ふところの安楽とは、いはく、行人既に一切衆生畢竟成仏すと知るが故に、敢えて軽慢せず。
 また、(不軽行によりて救えぬ者は)大悲門の中に於て、尤も宜しく拯救すべし。(その場合は)衆生の願に随つて而もこれを給付せよ。乃至身命をも而も恡惜せず、それをして安存せしめ、悦楽せしめよ。既に(衆生が師に)親近し巳んなば、師の言を信任せん。その相親しまんに因つて、また教導すべし。(それでもなお)衆生愚矇ならば、強いて度すべからず。真言行者、方便引進すべし。
勝義。二つに勝義とは(最高の真実智のこと)、一切の法は自性なしと観ず。云何が自性なき。いはく、凡夫は、名聞・利養・資生の具に執著して、務むるに安身をもつてし、恣に三毒・五欲を行ず。真言行人、誠に厭患すべし、棄捨すべし。
 また、もろもろの外道等は、その身命を恋しんで、或いは助くるに薬物をもつてし、仙宮の住寿を得。或いはまた天に生ずるを究竟といへり。真言行人、応に彼れ等を観ずべし。業力もし尽きぬれば、未だ三界を離れず。煩悩尚存し、宿殃未だ殄びず、悪念旋起す。彼の時に当つて苦海に沈淪して、出離すべきこと難し。当に知るべし、外道の法は、また幻・夢・陽焔に同じ。また、二乗の人、声聞は四諦の法を執し、縁覚は十二因縁を執す。四大・五陰は畢竟磨滅すと知りて、深く厭離を起して衆生の執を破し、本法(四諦・十二因縁)を勤修してその果を剋証す。本涅槃(無余涅槃)に趣くを巳に究竟といへり。
 真言行者、当に観ずべし。二乗の人は人執を破すといへども猶し法執(五蘊の法はありとする)あり。但し意識(第六意識)を浄めてその他(第七阿頼耶識・第八阿摩羅識)を知らず。久久に果位を成じ(声聞は六十劫、縁覚は百劫かけて)、灰身滅智をもつて、その涅槃に趣くこと、太虚空の湛然常寂なるが如し。定性ある者は、発生すべきこと難し(そこに住む声聞・縁覚は大乗の心を発することができない)。要ず劫限等の満(八万劫・四万劫)を待ちて方に乃ち発生す(やっと大乗の心を発す)。もし不定性の者は、劫限を論ずることなし。縁に遇えば便ち廻心向大す。化城より起つて三界を超えたりと以為へり。いはく宿(宿世に)、仏を信ぜしが故に乃ち諸仏菩薩の加持力を蒙つて而も方便をもつて遂に大心(大乗の心)を発す。(かくして二乗のものが転向したるのちには)乃し初め十信より下遍く諸位を歴て、三無数劫を経て、難行苦行し、然して成仏することを得。すでに知りんぬ、声聞・縁覚は智慧狭劣なり、(真言者は二乗を)また楽ふべからず。
 また、衆生あつて、大乗の心を発して菩薩の行を行ず。もろもろの法門に於て遍修せざることなし。また、三阿僧祇劫を経て、六度万行を修し、みなことごとく具足して、然して仏果を証す。久遠にして成ずることは、これ所習の法教の致、次第あるに由つてなり。今、真言行人、前の如く観じ巳るべし。また、無余の衆生界の一切衆生を利益し安楽する心を発すものは、大悲決定するをもつて永く外道・二乗の境界を超ゆ。また(その上に)瑜伽勝上の(三摩地の)法を修する人は、よく凡より仏位に入る者なり。また、十地の菩薩の境界を超ゆ。
 また、深く一切の法は自性なしと知る(べきである)。云何が自性なき。前には相説(相対)をもつてし、今は旨陳(実体から徹底してのべる)をもつてす。
 夫れ迷途の法は、妄想より生ず、乃至展転して無量無辺の煩悩を成じ、六趣に輪廻す。(しかし)もし覚悟し巳んぬれば、妄想止除し、種種の法滅するが故に自性なし。
 また次に、諸仏の慈悲は真より用を起こし(真如法身よりおこれる業用であり)、衆生を救摂したまふ。病に応じて薬を与え、もろもろの法門を施し、その煩悩に随つて迷津を対治す。栰に遇うて彼岸に達しぬれば、法巳に捨つべし、(この用いられた法は迷えるもの因縁によるもので)自性なきが故に。『大毘盧遮那成仏経(住心品)』に云ふが如し、「諸法は無相なり、いはく、虚空の相なり」と。是の観を作し巳るを勝義の菩提心と名づく。
 当に知るべし、一切の法は空なり、巳に法の本無生を悟んぬれば、心体自如(それを覚る心も自ら静まりて)にして身・心を見ず。寂滅平等究竟真実の智に住し、退失なからしむ。妄心、もし起らば、知りて随うこと勿れ。妄、もし息む時は、心源空寂なり。万徳斯に具し、(救いの)妙用無窮なり。所以に十方の諸仏、勝義・行願をもつて戒とす。但し、この心(大悲と大智)を具する者のよく法輪を転じ、自他倶に利す。
『華厳経(十地品)』に云うが如きは、
 「(覚りを得る為には) 悲を先とし慧を主として (布施・愛語等の)方便共に相応し (あらゆる衆生を度すという)信解清浄の心に 如来無量の力あり 無礙智現前し 自悟にして他に由らず (あらゆる勝法を )具足し如来に同じて この最勝の心を発す。(このようにして)仏子始めて 是の如くの妙宝の心を発生すれば 則ち凡夫の位を超えて 仏の所行の処に入り 如来の家に生在し 種族に瑕玷なく 仏と共に平等なり。 決して無上覚を成ずべし。纔かに是の如くの心(最勝心)を生ずれば 即ち初地に入ることを得。心楽動すべからざること 譬へば大山王の如し。」
また『華厳経』に云ふに准ぜば、「初地より乃し十地に至るまで、地地の中に於てみな大悲をもつて主とす(初地より十地まで各各の地地はいずれもみな大悲を以て主要としている)」と。
『無量寿観経(第九真身観)』に云ふが如し、「仏心とは、大慈悲是なり」と。
また、『涅槃経』に云く、「南無純陀、身は人身なりといへども心は仏心に同じ」と。(大般涅槃經卷第二壽命品第一之二にあり「純陀に帰命す、純陀の身は人の相をしているが内心は大慈悲を具せる仏心と同じ」)
また云く、
  世間を憐愍したまふ大医王 身及び智慧倶に寂静なり
  無我の法の中に真我あり 是の故に無上尊を敬礼す
  発心・畢竟、二つ別なることなし 是の如きの二心は先心を難しとす
  自ら未だ度を得ずして先ず他を度す 是の故に我れ初発心を礼す
  初発巳に人天の師となつて 声聞及び縁覚を勝出せり
  是の如くの発心は三界を過たり 是の故に最無上と名づくることを得
『大毘盧遮那経(住心品)』に云ふが如し、「菩提を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす(仏の一切智とは菩提を求める心を因とし、大悲を根本とし、手だてをもってその究極とする)」。

三摩地
 第三に三摩地と言つぱ、真言行人、是の如く(勝義と行願を)観じ巳つて、云何がよく無上菩提を証する。(無上菩提を身に付けるためには)当に知るべし、法爾に普賢大菩提心に住すべし。(その大菩提心とは)一切衆生は本有の薩埵(もとから金剛薩埵)なれども、貪・瞋・癡の煩悩のために縛せられるるが故に、諸仏の大悲、善巧智をもつてこの甚深秘密瑜伽を説いて、修行者をして内心の中に於て日月輪を観ぜしむ。この観を作すに由つて、本心を照見するに、湛然清浄なること猶し満月の光の虚空に遍じて分別する所なきが如し。または無覚了(はからいがない)と名づけ、または浄法界(きよきありのままま)と名づけ、または実相般若波羅蜜海(本来のさとりのきわみ)と名づく。よく種種無量の珍宝、三摩地を含すること、猶し満月の潔白分明なるが如し。何となれば、いはく、一切有情はことごとく普賢の心を含せり。我れ自心を見るに形月輪の如し。何が故にか月輪をもつて喩とするとならば、いはく、満月円明の体は、即ち菩提心と相類せり(満月の相は菩提心の相に類似しているから)。
 凡そ月輪に一十六分あり、(これを金剛頂経では)瑜伽の中の金剛薩埵より金剛拳に至るまで十六大菩薩(金剛界三十七尊の中、東西南北の各四菩薩なり、即ち東方にて金剛菩薩、金剛王、金剛愛、金剛喜、西方にて金剛法、金剛利、金剛因、金剛語、南方にて金剛宝、金剛光、金剛憧、金剛咲、北方にて金剛業、金剛護、金剛牙、金剛拳の諸菩薩)あるに喩ふ。
 三十七尊の中に於て、五方の仏位各一智を表わす。(すなわち)東方の阿閦仏は大円鏡智を成ずるに由つて、また金剛智と名づく。南方の宝生仏は平等性智を成ずるに由つて、また灌頂智と名づく。西方の阿弥陀仏は妙観察智を成ずるに由つて、また蓮華智と名づけ、または転法輪智と名づく。北方の不空成就仏は成所作智を成ずるに由つて、また羯磨智と名づく。中方の毘盧遮那仏は法界智を成ずるによつて本となす。巳上の四仏智より四波羅蜜菩薩を出生す。四菩薩は即ち金・宝・法・業なり。三世一切のもろもろの聖賢生成養育の母なり。(四波羅蜜菩薩を生じたる四佛は)是に於て印成せる法界体性の中より四仏を流出す。
 四方の如来に各四菩薩を摂す。東方の阿閦仏に四菩薩を摂す、金剛薩埵・金剛王・金剛愛・金剛善哉を四菩薩とす。南方の宝生仏に四菩薩を摂す、金剛宝・金剛光・金剛幢・金剛笑を四菩薩とす。西方の阿弥陀仏に四菩薩を摂す、金剛法・金剛利・金剛因・金剛語を四菩薩とす。北方の不空成就仏に四菩薩を摂す、金剛業・金剛護・金剛牙・金剛拳を四菩薩とす。四方の仏の各の四菩薩を十六大菩薩とす。
三十七尊の中に於て五仏・四波羅蜜及び後の四摂・八供養を除いて、但し十六大菩薩の四方の仏の所摂たるを取る(十六大菩薩のみを取って月の十六分に比するものである)。また『摩訶般若経』の中に、内空より無性自性空に至るまで、また十六の義あり(これと同じである)。
一切有情の心質の中に於て一分の浄性あり。衆行みな備はれり。その体極微妙にして皎然明白なり(すべての有情の心中に一分の清い性質がある。この一分が次第に発展すれば十六の円満の体となるがゆえにその初めの一分の中にすでに自証と化多と衆行がことごとく備わっている)。乃至六趣に輪廻すれどもまた変易せず。月の十六分の一の如し。凡そ月のその一分の明相、もし合宿の際に当れば、但し日光のためにその明性を奪はる。所以に現ぜず。後起つ月の初めより日日に漸く加へ、十五日に至りて円満無礙なり。
 所以に観行者、初めに阿字をもつて本心の中の分の明を発起し、只し漸く潔白分明ならしめて(ついには)無生智を証す。夫れ阿字とは、一切諸法本不生の義なり。
『毘盧遮那経』の疏に准じて阿字を釈するに、具に五義あり。一には阿字短声、是れ菩提心。二には阿字引声、是れ菩提行の義なり。三には暗字短声、是れ証菩提の義なり。四には悪字短声、是れ般涅槃の義なり。五には悪字引声、是れ具足方便智の義なり。また、阿字を将ゐて『法華経』の中の、開・示・悟・入の四字に配解せば、開の字とは仏知見を開く、即ち雙べて菩提心を開く、初めの阿字の如し、是れ菩提心の義なり。示の字とは仏知見を示す。第二の阿字の如し、是れ菩提行の義なり。悟の字とは仏知見を悟る。第三の暗字の如し、是れ証菩提の義なり。入の字とは仏知見に入る。第四の悪字の如し、是れ般涅槃の義なり。総じてこれを言はば、具足成就の第五の悪字なり、是れ方便善巧智円満の義なり。
即ち阿字は是れ菩提心の義なることを讃する頌に曰く、
八葉の白蓮一肘の間に 阿字素光の色を炳現す
禅・智倶に金剛縛(外縛)に入れて 如来寂静の智を召入す
扶れ阿字に会う者は、揩寔れ決定してこれを観ず。当に円明の浄識を観ずべし。もし纔かに(心月を)見るをば、則ち真勝義諦を見ると名づけ、もし常に見れば、則ち菩薩の初地に入る。もし転漸く増長すれば、則ち廓(拡大して)、法界に周く、量、虚空に等し。巻舒自在にして当に一切智を具すべし。
凡そ瑜伽観行を修習する人は、当に須く具に三密の行を修し、五相成身の義を証悟すべし。言うところの三密とは、一には身密とは、契印を結び聖衆を召請するが如き、是なり。二には語密とは、密に真言を誦し、文句をして了了分明ならしめて謬誤なきが如きなり。三には意密とは、瑜伽に住して白浄月の円満に相応し、菩提心を観ずるが如きなり。
次に五相成身を明かさば、一には是れ通達心(通達菩提心)、二には是れ菩提心(成菩提心)、三には是れ金剛心、四には是れ金剛身、五には是れ無上菩提を証して金剛堅固の身を獲るなり。然もこの五相、具に備ふれば、方に本尊の身と成るなり。
その(この五相三密の行により証した)円明は則ち普賢の身なり、また是れ普賢の心なり。十方の諸仏とこれ同じ。また乃ち三世の修行・証に前後あれども、達悟に及び巳んぬれば去・来・今なし。凡人の心は合蓮華の如く、仏心は満月の如し。この観もし成ずれば、十方国土のもしは浄、もしは穢、六道の含識、三乗の行位、及び三世の国土の成壊、衆生の業の差別、菩薩の因地の行相、三世の諸仏ことごとく中に於て現じ、本尊の身を証して普賢の一切の行願を満足す。故に『大毘盧遮那経(悉地成就品)』に云く、「是の如きの真実心は、故仏の宣説したまふところなり」。
 問ふ、前に二乗の人は法執あるが故に、成仏することを得ずと言ふ。今、また、(五相・三密などの)菩提心を修せしむる三摩地とは云何が差別なるや。
 答ふ、二乗の人は法執あるが故に、久久に理を証し、沈空滞寂して、限るに劫数をもつてし、然して大心(大乗の心)を発し、また、散善門(乱れた心)の中に乗じて無数劫を経。是の故に厭離すべきに足れり、依止すべからず。
 (これらに反して)今、真言行人は既に人・法の上執(極細妄執)を破し、よく正しく真実を見るの智なりといへども、或いは無始の(衆生と仏を隔てる)間隔のために未だ如来の一切智智を証すること能わず。故に(三密の)妙道を欲求し、(五相成身観の)次第を修持して、凡より仏位に入る者なり。即ちこの三摩地とは、よく諸仏の自性に達し、諸仏の法身(理法身)を悟つて、法界体性智を証して、大毘盧遮那仏の自性身・受用身・変化身、等流身を成ず。いはく、行人未だ証せざるが故に、理宜しくこれを修すべし(理としてよろしくこの三摩地を修すべきである。
 故に『大毘盧遮那経(悉地出現品)』に云く、「悉地は(他より来るのではなく、自らの)心より生ず」。
『金剛頂瑜伽経』に説くが如し、「一切義成就菩薩(覚りの前の釈尊)、初め金剛座に座し、無上道を取証し、遂に諸仏のこの心地を授ることを蒙つて、然してよく果を証す(秘密の諸仏に驚覚され五相の次第を経て衆生のもとからの心地を照覧する秘観を授けられ、はじめとて真実の仏果を明らかにできた)」と。
 凡そ、今の人、もし心決定して教の如く修行すれば、座を立たずして三摩地現前し、於是に本尊の身を成就すべし。故に『大毘盧遮那経供養次第法』に云く、「もし勢力の広く増益するなくんば(もし真言行者にして財施等の勢力をもって広く有情を助けられないなら、ただ一心に月輪観等の)法に住して但し菩提心を観ずべし。仏、この中に万行を具して浄白純浄の法を満足すと説きたまふ」と。
 この菩提心は、よく一切諸仏の功徳の法を包蔵するが故に、もし修証し(その働きを)出現すれば、則ち一切の導師となる。もし本に帰すれば(あらゆるものの本質たる菩提心そのものの実義に帰していえば)、則ち是れ密厳国土なり。座を起たずしてよく一切の仏事を成ず。菩提心を讃じて曰く、

 もし人仏慧を求めて 菩提心に通達すれば
 父母所生の身に   速かに大覚の位を証す

金剛頂瑜伽の中に阿耨多羅三藐三菩提心を発す論なり。」
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