問、禅宗には諸宗に超えて教外別伝とて師家の示しに任するにはあらず、唯自己に返照し工夫して悟道するを本意とす。門よりいる者は是家珍に非ず(古人の語)とて他に教えられたるをば真実にあらずといえり。いま真言の実義は師の教えを待って解するといえば禅門の心地にはすこぶる劣れるにや如何。
答、教えを待たざれども自得するは「法」の勝れたる規模にはあらず、唯是「機」の勝れたる故なり。その故は声聞の得るところも独覚の得るところも俱に同じく人空般若の理なれども声聞は佛の教えに依り、羅漢の示しを聞いて悟る。声を聞いて理に入るがゆえに名を声門と云う。独覚は飛華落葉を見て世法の無常を知りて、自ら修行して悟る。独り覚がゆえに名を独覚という。是則ち声聞は鈍根なるがゆえに他に教えられ独覚は利根なるがゆえに自ら悟るということ経論に明らかなに見へたるところなり。禅法も機の鈍なるは始めまず教えられずんば何を拠り所としてか至ることを得べきや。さて真言法は必ず佛の教えによらざれば解することあたわずというはその理、究竟最上にして大菩薩も其の境界にあらざるゆえなり。例えて云はば法華経の諸法実相の理は甚深なるがゆえに智慧第一の舎利弗なれども自らは入ること能ず。佛の説を信じて始めて入ることを得たりといへるが如し。阿字本不生の理も亦かくの如し。この故に大日経疏に曰く、然もこの自証の三菩提は一切の心地を出過して諸法本初不生を現覚す。このところは言語盡竟し、心行亦寂なり。若し如来威神の力を離んぬれば則ち十地の菩薩といえどもその境界に非ず。況や余の生死の中の人をや。守護国界経には釈迦如来成仏の時も十方の諸仏にこの心地を教えられて悟りたまふといへり。是をもって密宗は師資相承を以て規模とす。然るときは自工夫して得は猶其の理の浅きゆえなり。他に教えられざれば入ることあたわざるは却って其の理深故なりと知るべし。(続)
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