問曰。修多羅(経典)の中に具に此法あるに何ぞ重ねて説くを須いんや。
答曰。修多羅の中に、此法ありと雖も、衆生の根行等しからざると受解の縁別なるとを以ってなり。(多くのお経に説いてあっても人々の心根や受け入れる縁はさまざまであるから)
所謂如來の在世には衆生利根にして能説之人は色心の業勝れたれば、圓音(仏の完全なお声)一たび演ぶるときは異類(人間・鬼神)等しく解して、則ち論を須いざるも、如來滅後のごときは、或いは衆生能自力をもって廣く聞いて解を取る者あり、或いは衆生の亦自力をもって少しく聞いて多く解する者あり、或いは衆生の自心力なければ廣論によりて解を得る者あり。自ら衆生の復た廣論の文の多きものをもって煩となし、心に總持の少文にして多義を攝するものを樂うて能く解を取る者あり。是の如くなれば、此論は、如來の廣大深法無邊義を總攝(要約)せんと欲するが為なり。故に應に此論を説くべきなり。
答曰。修多羅の中に、此法ありと雖も、衆生の根行等しからざると受解の縁別なるとを以ってなり。(多くのお経に説いてあっても人々の心根や受け入れる縁はさまざまであるから)
所謂如來の在世には衆生利根にして能説之人は色心の業勝れたれば、圓音(仏の完全なお声)一たび演ぶるときは異類(人間・鬼神)等しく解して、則ち論を須いざるも、如來滅後のごときは、或いは衆生能自力をもって廣く聞いて解を取る者あり、或いは衆生の亦自力をもって少しく聞いて多く解する者あり、或いは衆生の自心力なければ廣論によりて解を得る者あり。自ら衆生の復た廣論の文の多きものをもって煩となし、心に總持の少文にして多義を攝するものを樂うて能く解を取る者あり。是の如くなれば、此論は、如來の廣大深法無邊義を總攝(要約)せんと欲するが為なり。故に應に此論を説くべきなり。