福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第七章

2013-11-07 | 諸経
この生が、有為、即ち、生滅するものなら、
生起、存続、消滅の、三つの特質に縛られる。
この生が、無為、即ち、生滅しないものならば、
生起、存続、消滅の、三つの特質に縛られてない。

生起、存続、消滅、三つが違うものならば、
有為の特質として働くのに、充分にならない。
生起、存続、消滅、この三つが同じものならば、
どうして、同時にして同所に、存在できるだろう。

生起、存続、消滅という、三つの相の他に、
別の相が必要であるならば、無限遡及となる。
生起、存続、消滅という、この三つの相の他に、
別の相が必要でないならば、それは有為ではない。

ナーガールジュナに、このように反論した。
生生、すなわち、生を生起させているものは、
本生、すなわち、単に生という原理に過ぎない。
そしてさらに、本生の中から、生生が生じている。

ナーガールジュナは、このように反論した。
もしも、生生が本生を生じさせるのであれば、
本生により、まだ生じさせられていない生生が、
どの様にして、その本生を生じさせるのだろうか。

六 汝の説によって、もしも<本の生>によって生ぜられたその<生の生>が<本の生>を生ずるのであるとするならば、その<生の生>によって未だ生ぜられていないその<本の生>が、どうして<生の生>を生ずるのであろうか。

七 汝の説によるならば、この<現に生じつつある本の生>が、欲するままにこれ(生の生)を生ずることであろう。もしも未だ生じていない(本の生)がこれ(生の生)
を生じうるのであるならば。

【反対派いわく】
八 灯がそれ自身と他のものをともに照らすように、<生>もまた同様にそれ自体(自性)と他のものとをともに生ずるのであろう。

【答えていわく】
九 灯のうちにも、また灯の存する場所にも、闇は存在しない。灯は何を照らすのであるか。何となれば、照らす光は闇を滅ぼすものでもあるから。

一〇 現に生じつつある灯火によって、どうして闇が滅ぼされるのか。何となれば、現に生じつつある灯火は未だ闇には達していないのに。

一一 あるいは、もしも灯火が闇に達しなくても、灯火が闇を滅ぼすのであるとするならば、ここに存在する灯火が全世界にある闇を滅ぼすことになろう。

一二 もしも灯火がそれ自体と他のものとを照らすのであるならば、闇もまたそれ自体と他のものとを覆って暗くするであろうことは、疑いない。

一三 この未だ生ぜられる生がどうしてそれ自体を生ぜせしめるであろうか。もしもすでに生じたものが生ぜせしめるものだとすると、すでに生じたのにどうしてさらに生ぜられるであろうか。

一四 いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものの、決して生じない。いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。

一五 この<現在生じつつあるもの>が<生>のうちに現れ出ないときには、どうして他方において<生>に縁って<現在生じつつあるもの>というものがあるといわれるのであろうか。

一六 縁によって起こるものは、なにものでもすべて本性上やすらい(寂静)でいる。それ故に<現に生じつつあるもの>はやすらいでいる。<生>そのものもやすらいでいる。

一七 もしも何らかの<未だ生ぜざるもの>がどこかに存在するのであれば、そのものは生起するであろう。しかしそういうものが存在しないのに、どうしてそのものが生起するであろうか。

一八 もしもこの<生>が<いま現に生じつつあるもの>を生ずるのであるならば、その<生>をさらにいずれの<生>が生ずるであろうか。

一九 もしも他の<生>がこの<生>を生ずるのだとするならば、そこで<生>は無限遡及となってしまう。またもしも不生であるのに生じたのだとするならば、一切はみなこのようにして生ずるだろう。

二〇 要するに、有が生ずるということは、理に合わない。また無が生ずるということも、理に合わない。有にして無なるものの生起することもない。このことは以前すでに論証しておいた。

二一 <いま現在消滅しつつあるもの>の生ずることはありえない。しかるに<いま現在消滅しつつあるものでないもの>はありえない。

二二 すでに住したものは、さらに住することがない。未だ住したことのないものもまた住することがない。いま現在住しているものもまた住することはない。未だ生じたことのないものが、どうして住することがあろうか。

二三 いま現に消滅しつつあるものが住するということはありえない。またいま現に消滅しつつあるのではないものはありえない。

二四 一切のものは常に老・死の特性をもっているのであるから、いかなるものが、老・死なくして住するであろうか。

二五 <住>の住することは、他の<住>によっても、またそれ自体によっても、成立しない。それはあたかも、<生>の生じることが、それ自体によっても、また他のものによっても成立しえないようなものである。

二六 未だ滅びないものも滅びない。すでに滅びてしまったものも滅びない。現にいま滅びつつあるものもまた同様に滅びない。

二七 要するに、すでに住したものの消滅することはありえない。未だ住したのでないものの消滅することも、またありえない。

二八 実に、その(乳の)状態によっては、その同じ(乳の)状態は消滅することがない。また乙の状態(酪の状態)によっても、その甲の状態(乳の状態)が消滅することはない。

二九 一切のものの生起が起こりえないときには、同様にして一切のものの消滅することも起こりえない。

三〇 まず、有であるものの消滅することは起こりえない。何となれば、(あるものが)有であってしかも無であることは、一つのものにおいては起こりえないからである。

三一 無であるものの消滅することも、また起こりえない。あたかも第二の頭を切断することが起こりえないようなものである。

三二 消滅するということは、それ自体によってはありえない。消滅するということは他のものによっても、ありえないようなものである。

三三 生と住と滅とが成立しないが故に、有為は存在しない。また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか。

三四 あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものであると、譬喩をもってそのように生起が説かれ、そのように住が説かれ、そのように消滅が説かれる。


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