福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神儒仏老の関係

2021-03-29 | 法話

神儒仏老は一つの真理に対して別の見方をしているにすぎない。

「・・・唯だ道を学べ。道に別名無し、神儒仏老は唯だ是れ箇の道。恰も一太陽の上下四維を照臨し、其の光の到らざる所無きが如し。只だ学者眼に知見学習の雲霧有り。或は儒見に落在し、或は仏見に落在す。是れ大道に同異有るに非ず、眼見に障礙有るを以てなり。故に神家者流其の障礙を払尽す、之を天原に止ると謂ふ。儒家者流其の障礙を払尽す、之を明徳を明かにすと謂ふ。仏家者流其の障礙を払尽す、之を見性成仏と謂ふ。老家者流其の障礙を払尽す、之を衆妙の門(老子第一章に「玄之又玄、衆妙之門」(あらゆるものが生まれてくる門)とあり)を得と謂ふと。問者黙して退く。今諸々の仁者の為に言はん。若し神を学ばんと欲せば、先づ、御中主(根源神)以前に向つて求めよ。儒を学ばんと欲せば、先づ、三皇(論語で仁政のもととされる三皇・五帝の最初、伏羲・神農・女媧)以前に向つて求めよ。仏を学ばんと欲せば、先づ、威音王(法華経常不行菩薩品にいう過去佛の最初。「過去に仏いましき 威音王と号けたてまつる神智無量にして 一切を将導したもう」)以前に向つて求めよ。老を求めんと欲せば、先づ、黄帝以前に向つて求めよ。然らば則ち道に竇逕(水の通うあなとみち)莫く、見に異端莫し、神に値はば神受用し。儒に値はば儒受用し、仏に値はば、仏受用し、随処に主と為りて更に障礙無し。是れ吾が教外別伝の玄旨にして、即ち孔子一貫の要訣なり。道を学ぶ者請ふ此より始めよ。」

(『禅海一瀾』 今北洪川 より )

今北洪川老師は幕末・明治の臨済僧。鎌倉円覚寺派初代管長。鈴木大拙の師僧。

 

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