「すべて一切のものは「生」そのものとして「本当のわれ」の胎内に包容せられ、その温かい血の脈動、流通に由りてのみ、生きているとともに、その全一としての「本当のわれ」はまたその細胞たる各々個々のものを通じてのみ、その内容を拡大し充実し、次から次に新しい経験を取り入れているのである。・・・笑うのも、泣くのも、欺くのも、悲しむのも、訴えるのも、さては嫉妬、排斥、摩擦、闘争、何ひとつとして「生」そのものの荘厳ならぬものはないので、これを大師は「秘密荘厳」(十住心論等)というのである。
特にこの荘厳を秘密という所以は、対立の個体にのみ幻惑して「生」そのものとしての全一の姿を見失いたる普通人の立場からは、この全一のための荘厳の実相が、いかにも神秘であり、隠密であって、これをそのままに理解し味得することが出来ないからである。(真言宗読本、栂尾祥雲)」
特にこの荘厳を秘密という所以は、対立の個体にのみ幻惑して「生」そのものとしての全一の姿を見失いたる普通人の立場からは、この全一のための荘厳の実相が、いかにも神秘であり、隠密であって、これをそのままに理解し味得することが出来ないからである。(真言宗読本、栂尾祥雲)」