今日は大師が高野山を請け乞う上表を発せられた日
「紀伊の国伊都の郡高野の峯にして入定の処を請け乞はせらるる表
沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤す、水積もるときは魚龍産化す。このゆえに耆闍の峻嶺には能仁の迹休せず。孤岸の奇峰には観世の跡相続す。其の所由を尋ぬれば地勢自から爾るなり。又台嶺の五寺に禅客肩を比し、天山の一院に定侶袂を連ぬることあり。是れ國の寶、民の梁なり。伏しておもんみれば我朝歴代の皇帝、心を佛法に留む。金刹銀臺櫛のごとくに朝野に比び、義を談ずる龍象、寺ごとに林をなす。法の興隆ここにして足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客(四禅定をなすひと)乏しく、幽藪窮巌に入定の賓まれなり(深山幽谷で修行の人まれである)。實に是れ禅教未だ傳はらず、住所相応せざるが致すところなり。今禅教の説に准ずるに深山の平地尤も修善に宜し。
空海少年の日、このんで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地あり。名けて高野といふ。計るに紀伊國、伊都郡の南に當る。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今思はく、上は國家の奉為にして下は諸の修行者の為に荒藪を芟り夷げて(かりたいらげる)聊かに修禅の一院を建立せむ。經の中に誠しむることあり。『山川地水は悉く是れ國主の有なり。若し比丘他の許さざる物を受用すれば即ち盗罪を犯す』てへり。加之、法の興隆は悉く天心に繋けたり。若しは大なりとも、若しは小なりとも、敢えて自ら由にせず。望請すらくは彼の空地を賜はることを蒙って早く小願を遂げむ。然らば四時に勤念して雨露の施しを答せむ。
若し天恩允許せば講ふ、所司に宣付せよ。輕しく震扆(ついたて)を塵して伏して深く悚越(しょうえつ・・恐縮する)す。沙門空海誠惶誠恐謹言
弘仁七年六月十九日 沙門空海上表」