第二七課 兄弟愛
兄弟というものは、本当に妙なものです。同じ腹から出たという根拠の下に、千篇一律に扱われがちです。世には性質も、顔付きも、趣味も、身体も、一見同じように見える兄弟姉妹も稀にはあるでしょうが、それは外見だけで内部はかなり異っているでしょう。それにそんな兄弟でも成長とともに随分違って来るものです。大抵の兄弟姉妹は、世人と同じく千差万別で、中には全く正反対なものもあります。それが同じ家庭内で、相当の歳(独立する年齢)までともに暮すのですから、互いの間によほどしっかりした心配りがないと、易やすきについて堕落してしまいます。例えば、大変下劣な兄とか弟とかがあるとします。だけれど兄であるのを嵩に着て傍若無人の振舞をし続けたり、弟だからとて甘えて放蕩の仕ほうだいをする。これに対して兄弟姉妹たちは、兄だから、弟だから仕方がない、見逃そうとする安っぽい態度。真面目に忠告する謹厳さを欠いて不断のなれなれしい気持ちでからかって見たりすることが多いです。兄弟は、どういうわけか向い合って、自分の秘密や真剣な話など却って話しにくいものです。まして恥かしいことなんか、お互いに性的の嫌悪性があって、話しにくいものです。その点、友達の方が却って打ち明けられ、お互いに忠告しやすいものです。ここの道理を、「兄弟は他人の始め」と言います。
日本の家族制度上、兄弟愛を特に親子の愛の次に親密のものと考えられる傾向がありますが、その弊害か、兄弟だという観念かんがえは、全く安易な溺愛を与えて、平常はそう何とも思いませんが、何か不利益、不名誉なことでも兄弟の一人に起ると、全部の兄弟が、急にこぞって自分の兄弟の方ばかり肩を持って、物の真相を誤り無理を通そうとしたり、得難き親友までも捨ててしまうことが多いのです。甚だしいものになると、随分と不可いけないことでも、兄弟のやることだと是認した上、自分までその悪事に加担して遂に大罪を犯すことがあります。また、兄とか弟とかの立身出世のために自分を身売りまでする姉や妹があります。そんなのは盲愛と言いましょうか、愛の濫用、堕落と言いましょうか、兎も角、決してそんなことで、兄弟が本当に救われることはありません。両方ともに必ず後で後悔するでしょう。自分を滅ぼして他を立てるということは、ある特別の場合(国家とか、君のためとか。そのもののために自己が存在し、そのものの滅亡は取りも直さず自己の滅亡である時、当然犠牲になるべきだと信じます)以外には通用しないことです。姉や妹のそんな乱暴な犠牲を求めてまで兄や弟は何を成功しようとするのでしょう。「親しき仲にも礼儀あり」ということは、兄弟の中に特に必要だと思います。
仏教は一切衆生を兄弟として認めておりますが、特別に血縁ちすじに依る兄弟というものを認めません。この立場から、もう一度、兄弟というものを見なおしてかかると、本当の兄弟愛が出て来るのではないでしょうか。兄弟姉妹の各々が、お互いに頼らず、まず自分を修め、自分を救い、それから他に及ぼし、相提携たずさえて団欒するということにしたら、本当の兄弟愛がそこにはぐくみ育てられて来ると思います。
(兄弟で道を求めた例は多くあります。
・釈尊高弟の三迦葉として有名なのは優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉です。火事外道として勢力を持っていましたがお釈迦様に帰依したのでお釈迦様の教団が一挙に拡大したとされます。
・また高弟阿難はお釈迦様のいとこで提婆達多の兄弟です
・お釈迦様の弟子で物忘れで有名な周利槃特の兄は摩訶槃特といいこちらは聡明だったとされます。
・後の時代ですが、無著と世親は、ペシャワールのバラモンの家に生まれた兄弟です。兄の無著は部派仏教の説一切有部にて出家しますが、それに満足せず神通力で兜率天の弥勒菩薩に会い、大乗仏教の空の思想を学びます。無著の要請で弥勒菩薩は地上に下りて『瑜伽師地論』を説いたとされます。弟の世親も説一切有部にて出家し、説一切有部の教義を集大成した『倶舎論(阿毘達磨倶舎論)』を著します。しかしやがて、兄の無著に説得されて大乗に転向し、唯識の開祖となっています。
・東密広沢流の祖、本覚大師益信は京都の男山石清水八幡宮の開基僧行教の実弟です。
・親鸞聖人の父、有範の3兄弟、親鸞聖人4兄弟も共に出家されています。)