福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

沈丁花に思うこと

2015-03-14 | 法話
散歩していて民家の庭先から沈丁花の香りがただよってきました。生寺の庭にも沈丁花がありこの花の香りをかぐたびに古寺を思い出します。
「人はいさ 心も知らず 古寺は 花ぞ昔の 香ににほひけむ」といったところでしょうか。
華の香りは奥深いものがあります。古人は華の香りで悟った人もいます。
「木犀の香・薄田泣菫」という小品があります。木犀の香りで悟るという話です。
「・・名高い江西詩社の盟主黄山谷(宋代の政治家で詩人・黄庭堅のこと、1045~1105)が、初秋のある日晦堂老師を山寺に訪ねたことがあつた。久濶きゆうかつを叙しをはると、山谷は待ちかねたもののやうに、
「時につかぬことをお訊ね申すやうですが……と言つて、
 吾無隠乎爾(我汝に隠すところなし)
といふ語句の解釈について老師の意見を仰いだものだ。この語こそは、山谷がその真義に徹しようとして、工夫に工夫を重ねたが、どこかにまだはつきりしないところがあるので、もて扱つてゐたものだつた。
 晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。
 晦堂は静かに口を開いた。
「木犀の匂をお聴きかの。」
 山谷は答へた。
「はい、聴いてをります。」
「すれば、それがその――」晦堂の口もとに微笑の影がちよつと動いた。「吾無隠乎爾(我汝に隠すところなし)といふものぢやて。」
 山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。・・」

おなじところを「悟りについて・鈴木大拙」は「・・黄山谷が晦堂和尚に禅をたずねたことがあった。その時に晦堂がいうには「孔子のことばに『われ汝に隠したことがあるか、わしはお前たちに何事も隠してないのである』とあるではないか」そういわれて黄山谷はなにかを答えようとして口を開けたが晦堂が手でふさいだ。その後、この二人は山へ一緒に散歩に出かけたが、丁度木犀の花盛りでその香りが渓谷に満ちていた。晦堂が「木犀の好い香りがきけるか」と尋ねた。そうすると黄山谷は「いい香りがする」と返事した。晦堂和尚はすかさず「それだ、汝に隠したことはないではないか」これを聞いて黄山谷は悟るところがあった、ということである。これをみても悟りは内から出るもので外から来るものではないことがわかる。・・」と書いています。
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