大方廣佛華嚴經菩薩明難品第六
「爾時文殊師利菩薩。問覺首菩薩言。「佛子。心性は是一なるに、云何んぞよく種種の果報生するや。或は善趣に至り、或は惡趣に至る。或は諸根を具すあり或は具さざるものあり、或は善處に生じ或は惡處に生じ、端正、醜陋、苦樂の不同ありや。業は心を知らず心は業を知らず。受は報を知らず、報は受を知らず。心は
受を知らず、受は心を知らず。因は縁を知らず、縁は因を知らず。智は法を知らず、法は智を知らず。
爾時覺首菩薩、以偈答曰
『衆生を化せんがための故に 乃ち能く斯の義を問えり。諸法の如實の性を 我れ説かん。仁、諦かに聞け
諸法は自在ならず、 實を求めるに不可得なり
是故に一切の法は 二倶に相知らず
譬えば駛水の流れは 流流れて絶已むことなけれども、二倶に相しらざるが如く、 諸法もまた是のごとし
亦た、明燈の焔は 焔焔として暫くも停らざるも、二倶に不相いしらざるがごとく諸法もまた是のごとし
亦た長風が起り 鼓拂して動勢を生ずるも 二倶に相い知らざるがごとく 諸法もまた是のごとし
亦た深廣の地は 展轉して相依住すれども二倶に相い知らざるがごとく 諸法もまた是のごとし
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は此によりて衆苦を轉ずれども 而も實に所轉なし
法性に所轉なけれども 示現の故に轉ずることあり。彼において示現まければ 示現にも所有なし。
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は其性悉く空寂なれば 虚妄にして眞實なし。
觀察正思惟せば 有の者にも所有なし、 彼の見は顛倒ならず、 法眼清淨なるが故なり。
虚妄も非虚妄も、 若は實、若しは不實も、世間も出世間も、 但だ假言説有るのみ。』」
「爾時文殊師利菩薩。問覺首菩薩言。「佛子。心性は是一なるに、云何んぞよく種種の果報生するや。或は善趣に至り、或は惡趣に至る。或は諸根を具すあり或は具さざるものあり、或は善處に生じ或は惡處に生じ、端正、醜陋、苦樂の不同ありや。業は心を知らず心は業を知らず。受は報を知らず、報は受を知らず。心は
受を知らず、受は心を知らず。因は縁を知らず、縁は因を知らず。智は法を知らず、法は智を知らず。
爾時覺首菩薩、以偈答曰
『衆生を化せんがための故に 乃ち能く斯の義を問えり。諸法の如實の性を 我れ説かん。仁、諦かに聞け
諸法は自在ならず、 實を求めるに不可得なり
是故に一切の法は 二倶に相知らず
譬えば駛水の流れは 流流れて絶已むことなけれども、二倶に相しらざるが如く、 諸法もまた是のごとし
亦た、明燈の焔は 焔焔として暫くも停らざるも、二倶に不相いしらざるがごとく諸法もまた是のごとし
亦た長風が起り 鼓拂して動勢を生ずるも 二倶に相い知らざるがごとく 諸法もまた是のごとし
亦た深廣の地は 展轉して相依住すれども二倶に相い知らざるがごとく 諸法もまた是のごとし
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は此によりて衆苦を轉ずれども 而も實に所轉なし
法性に所轉なけれども 示現の故に轉ずることあり。彼において示現まければ 示現にも所有なし。
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は其性悉く空寂なれば 虚妄にして眞實なし。
觀察正思惟せば 有の者にも所有なし、 彼の見は顛倒ならず、 法眼清淨なるが故なり。
虚妄も非虚妄も、 若は實、若しは不實も、世間も出世間も、 但だ假言説有るのみ。』」