続日本紀 / 天平十一年(739)
「十一月辛卯三日 、平群の朝臣廣成拝朝す。
始め廣成は天平五年733大使多治比真人に従ひ入唐す。(天平)六年734十月に事畢りて却帰す。四船同じく蘇州より発して海に入る。悪風忽ちに起こりて彼此相失せり。廣成の船、百十五人崑崙国に漂著す。賊兵あり来り囲んで遂に拘執せらる。船人或は殺され或は迸さる。自餘の九十余人は瘴に著して死亡す。廣成等四人は僅に死を免れて崑崙王に見ゆることを得たり。
仍ち升糧を給し悪処に安置せらる。(天平)七年(735)に至って唐國欽州の熟崑崙、彼に到る。便ち倫載せられて出来て唐國に帰る。本朝の学生阿倍仲満に逢ひて便ち朝することを得、渤海の路を取り帰朝せむことを請ふ。天子之を許し船糧を給ひて発遣せしむ。(天平)十年738三月、登州より海に入る。 五月渤海界に到る。 適(たまた)ま其王大欽茂、使を差はして 欲我朝に聘せんと欲するに遇ふ。 即時同発し 渡海に及ぶ。 渤海の一船は浪に遇て傾覆し大使胥要徳等四十人没死す。 廣成等は遺衆を卒して出羽国に到著す。」
以下ウキぺデア等に依りこの間の経緯を補足します。
天平5年(733年)4月に遣唐大使の多治比広成は難波津を進発し唐に着き、無事朝貢の役目を果たした後、開元22年(734年・日本の天平6年)10月4艘の船で蘇州を出発したが
平群広成の乗った第3船は潮の流れのままに南へと流された。第4船の行方は全く不明。広成の船は崑崙国に漂着。この時、船には115人がいた。上陸すると直ちに武装した崑崙兵が襲来し90人余りは捕らえられ、ほとんどはマラリアで死亡し、生き残ったのは広成など4人だけだった。広成一行は、崑崙王に拝謁して抑留・軟禁された。
開元23年(735年)になって唐の欽州(現在の中華人民共和国広西チワン族自治区。トンキン湾に面する)在住の崑崙商人に助けられ、唐に帰国でき唐では阿倍仲麻呂が帰国の方途を探り玄宗の裁可で許された。開元26年(738年・天平十年)10月、広成ら遣唐使生き残りの一行は登州から海路渤海入りし、文王大欽茂が即位したばかりの渤海では新王即位を知らせる使者を日本に派遣する準備を進めており、日本の使者が迎えに来るまで待てばどうかと勧められたが、広成はすぐにも帰国したいと申し出た。出航地の記載はない。渤海使は2隻の船に分乗し、日本海を南下したが、途中1隻が大波を受けて転覆し、大使の胥要徳ら40余名が溺死した。別の船に乗船していた広成は副使の将軍・己珎蒙らと共に天平11年(739年)7月に出羽に到着し、6年ぶりに日本への帰国を果たした。副使らとともに10月になって平城京に入ると、11月に拝朝して経緯を報告し、翌12月には外従五位下から一挙に正五位上に昇叙された。
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