以下密教大辞典等に依ります。
浄厳は寛永五十六年十一月二十三日河内錦部郡鬼住村生まれ。(元禄十五年1702六月二十七日遷化(64歳)。)湯島霊運寺(真言宗霊雲寺派総本山)開基。新安流祖。妙極堂、瑞雲道人等と称す。10歳で高野山に登り悉地院に住し検校雲雪に出家、釈迦門院朝遍に密乗を習い、17歳南院良意に中院流受法。18歳。瑞祥多し。翌年実相院長快に両部灌頂を受ける。20歳良意から安流の許可、23歳で伝法阿闍梨となり安流の正嫡となる。延宝三年仁和寺顕証から廣澤流を受傳。鳴滝般若寺中興、延宝四年泉州高山寺で自誓受戒、儀軌の研鑽に依り受明灌頂を再興。古来の四十余流を統一して新安祥寺流を大成。悉曇も復興して悉曇三密鈔八巻・普通真言蔵を著す。その他著書は百余といわれる。郷里の延命寺を中興し如法真言律の本所とし、河内教興寺も再興。柳沢吉保は霊岸島に瑞雲寺を、綱吉は湯島に霊雲寺を寄進。得度の弟子436人、受戒者は1万5千人。元禄十年霊厳寺にて結縁灌頂を開壇し入壇者九万人。水戸の儒者、森尚謙はこの盛儀を賀し、詩を寄せる。「南天鉄塔覚皇城、 芥子開扉此道明、惆帳會昌沙汰濁、讃嘆日域法流清、尸羅具足戒證無漏、灌頂結縁救有情、遍照金剛今何在、那伽定裏見形聲」。
元禄十四年正月、幕命を奉じて愛染王供を修し大般若を転じて将軍の息鶴千代の疱瘡を癒す・・・
元禄十五年1702六月二十七日朝、頭北面西、結印誦呪、恬然として寂す。壽六十四.臈二十七.谷中の地に葬り妙極院と號す。高足に蓮體、慧光、慈妙、實詮、契沖等。
(私は慈雲尊者の悉曇を習いましたが、その時延命寺に伝わる浄厳師の悉曇十八章も見ましたがあたかも印刷体ともいえる端正な字体です。
また身近なところでは般若心経の功徳について「なぜに般若をもって法楽となすや、かの如来などはみな般若の威力によって生ずるが故に、諸天などはみな般若の威力によって生ずるがゆえに、般若を聞くときに往恩を報ぜんがための故にきたりて護持をなすなり。」といっています。)