福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「維摩詰所説経・文殊師利問疾品第五」

2022-02-01 | 諸経

「維摩詰所説経・文殊師利問疾品第五」

その時、仏、文殊師利に告げたまわく、『汝行きて、維摩詰に詣り、疾を問へ』と。

文殊師利、仏に白して言さく、『世尊、彼の上人は、酬対なし難く、深く実相に達し、よく法の要を説き、辯才滞ることなく、智慧無礙なり。一切の菩薩の法式悉く知り、諸仏の秘蔵に入ること得ざるは無く、衆魔を降伏し、神通に遊戯し、その慧と方便は、すなわち皆すでに度を得る、しかりといえども、まさに仏の聖旨を承けたてまつり、彼れに詣りて、疾を問うべし。』と。

此処に於いて、衆中の諸の菩薩、大弟子、釈・梵・四天王等、ことごとく、この念を作さく、『今、二の大士、文殊師利と維摩詰共に談せば、必ず妙法を説かん』と。即時に八千の菩薩と五百の声聞、百千の天人も皆随従せんと欲す。是に於いて、文殊師利は、諸の菩薩、大弟子衆、および諸の天人に恭敬囲繞せられて、毘耶離大城に入る。

爾時、長者維摩詰は、心に念わく、『今、文殊師利、大衆と倶に来たる』と。すなわち神力を以って、その室内を空しくし、所有る諸の侍者を除きて、ただ一の床を置き、疾を以って臥せり。

文殊師利すでにその舎に入りその室の空にして諸所有なく、独り一床に寝ぬるを見る。

時に、維摩詰言わく、『善来、文殊師利。不来の相にて来たり。不見の相にて見る。』と。

文殊師利言わく、『如是なり居士。若し来たりおわれば更に来ず。若し去りおわれば更に去らず。所以何んとなれば、来たる者は、従りて来たる所無く、去る者は、従りて至る所無し。見るべき所の者は更に見るべからず。しばらくこの事は置かん。居士、この疾は、むしろ忍ぶべきや不や。療治は損ずること有りや不や、増すに至らんやいなや。世尊、慇懃に問いを致すこと無量なり。居士、この疾は、何の因起する所ぞ。それ生じて久しきや。まさに云何が滅すべき。』と。

維摩詰言わく、『癡に従りて、愛有れば、すなわち我が病生ず。一切衆生病むを以っての故に、我病む。もし一切の衆生の病滅せば、すなわち我が病も滅せん。所以は何となれば、菩薩は衆生の為の故に生死に入る。生死有ればすなわち病有り。もし衆生、病を離ることを得ば、すなわち菩薩また病むこと無からん。譬ば、長者に、ただ一子のみ有りて、その子病を得ば、父母もまた病み、もし子の病癒ゆれば、父母もまた癒ゆるが如し。菩薩もかくの如し。諸の衆生に於いて、これを愛すること子の若し。衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ。また、この疾は、何に因りて起する所ぞ、と言へば、菩薩の病は、大悲を以って起こる』。

文殊師利言わく『居士、この室は、何を以てか空にして侍者無き』。

維摩詰言わく、『諸仏の国土も、亦復皆空なり。』

また問ふ『何を以ってか空と為す。』

答ふ『空なるを以って空なり。』

また問ふ『空に何ぞ空を用ふや』

 

答て曰く『無分別空を以っての故に空なり。』

また問ふ『空は分別すべきや。』

答て曰く『分別もまた空なり』

また問う、『空は、まさに何に於いてか求むべき。』

答て曰く『まさに六十二見の中に於いて求むべし。』

 

又問ふ『六十二見はまさに何に於いてか求むべし。』

答て曰く『まさに諸仏の解脱の中に於いて求むべし。』

また問う、『諸仏の解脱は、まさに何に於いて求むべし。』

答て曰く『まさに一切の衆生の心行中に於いて求むべし。また仁の所問の『何ぞ侍者無きや』とは、一切の衆魔および諸外道、皆吾が侍なり。所以は何となれば、衆魔は生死を楽ひ、菩薩は生死に於いて、しかも捨てず。外道は諸見を楽い、菩薩は諸見に於いてしかも動ぜざればなり。』

文殊師利言く『居士の所疾は、何等の相と為すや。』

維摩詰言「我病は無形不可見なり。」

又問ふ『この病は、身と合するや心と合するや。』

答て曰く『身と合するに非ず、身相を離るるが故に。また心と合するにも非ず、心は如玄なるが故に。』

また問ふ『地大水大火大風大、この四大に於いて何れの大病なりや。』

答て曰く『この病は地大に非ず、また地大を離れず。水火風大もまたまたかくの如し。しかれども、衆生の病は四大従り起こる。それに病有るを以っての故に我病む。

爾時、文殊師利、維摩詰に問ひて言く「菩薩は應に云何んが有疾の菩薩を慰喻すべきや」

維摩詰言く「身は無常なりと説けども、身を厭離すとは説かざれ。身は苦有りと説けども、涅槃を楽へとは説かざれ。身は無我なりと説きてしかも衆生を教導せよと説け。身は空寂と説けども、畢竟寂滅なりとは説かざれ。先罪を悔ひよとは説けども、しかも過去に入れとは説かざれ。己の疾を以って彼の疾を愍み、當に宿世無数劫の苦を識るべし。當に一切衆生を饒益することを念ずべし。所修の福を憶ひ、浄命を念じ、憂悩を生ずることなかれ。常に精進を起して、當に医王と作りて衆病を療治すべし。菩薩は當に如是に、有疾の菩薩を慰喩しそれをして歓喜せしむべし』。

文殊師利言く『居士、有疾の菩薩は、云何がその心を調伏せんや。』

維摩詰言く『有疾の菩薩は、まさにこの念を作すべし、『今、我この病は、皆前世の妄想・顛倒・諸煩悩より生じて実法有ること無し。誰か病を受くる者ぞ。所以何んとなれば、四大合するが故に仮に名づけて身と為す。四大は主無く、身もまた我無し。またこの病の起こるは、皆、我に著すに由る。この故に、我に於いてまさに著を生ずべからず。すでに病の本を知れば、すなわち我想および衆生想を除く。まさに法想を起こすべし。まさにこの念を作すべし、ただ衆法を以ってこの身を合成す。起る時、我起こると言はず。滅する時、我滅すると言はず。彼の有疾の菩薩は、法想を滅せんが為に、まさにこの念を作すべし、この法想は、またこれ顛倒なり。顛倒は、これすなわち大患なり。我、まさにこれを離るべし。云何なるをか離ると為す。我・我所を離るなり。云何なるか我・我所を離る。二法を離るを謂う。云何なるか二法を離る。内外の諸法を念はず平等に行ずることを謂ふ。云何なるか平等なる。謂く我等しく涅槃等しと為す。所以は何となれば、我および涅槃は、この二つは、皆空なればなり。何を以ってか空と為す。ただ名字を以っての故に空なり。如是の二法は決定性無し。この平等を得れば、余病有ること無し、ただ空病のみ有り。空病もまた空なり。この有疾の菩薩は、所受無きを以って、諸受を受け、未だ仏法を具せざるも、また受を滅してしかも証を取らず。設し身に苦あらば惡趣の眾生を念じて大悲心を起こせ。我既に調伏し亦た當に一切眾生を調伏す。但だ其病を除き而も法を除かず。為に病本を断じて之を教導せよ。何をか病本と謂う。攀縁有るを謂う。攀縁有るに従て、すなわち病本と為る。何ぞ攀縁せらる。謂く三界なり。云何が攀縁を断ずる。無所得を以ってす。もし無所得ならば、すなわち攀縁無し。何をか無所得と謂う。二見を離るを謂う。何をか二見と謂う。謂く、内見と外見は之無所得なり。文殊師利、是を有疾の菩薩、其心を調伏すと為し、老病死苦を断ずと為す。是れ菩薩の菩提なり。若し如是ならずば己に修治する所、無慧利と為す。譬ば怨に勝ちて乃ち勇と為すべきが如し。如是に兼て老病死を除く者は菩薩之謂也。彼の有疾の菩薩、應に復た是念を作すべし。我が此の病は非真非有なるが如く、眾生の病も亦た非真非有なり、と。是の觀を作す時、諸眾生に於いて若し愛見の大悲を起さば即ち應に捨離せよ。所以者何。菩薩は客塵煩惱を斷除して而も大悲を起こす。愛見の悲は、すなわち生死に於いて疲厭の心有り。もし能くこれを離るれば疲厭有ること無し。在在の所生、愛見の覆う所と為らざればなり。所生に縛無ければ、よく衆生の為に法を説いて、縛を解かん。佛所説の如し。もし自ら縛有りて、よく彼の縛を解くといはばこの處有ること無し。もし自ら縛無くして、よく彼の縛を解くこと、これはこの處有り。この故に菩薩はまさに縛を起こすべからず。何をか縛と謂ひ、何をか解と謂ふ。禅味に貪著すること、これ菩薩の縛なり。方便を以って生ずる、これ菩薩の解なり。また、方便無き慧は縛なり。方便有る慧は解なり。慧無き方便は縛なり。慧有る方便は解なり。何の謂ぞ、方便無き慧は縛なりとは。謂く、菩薩は、愛見の心を以って、仏土を荘厳し、衆生を成就し、空・無相・無作の法の中に於いて自ら調伏す、これを方便無き慧は縛なりと名づく。何をか、方便有る慧は解なりと謂ふ。謂く、愛見の心を以て仏土を荘厳し、衆生を成就せず、空・無相・無作の法の中に於いて以って自ら調伏して疲厭せず。これを方便有る慧は解なりと謂ふ。何をか、慧無き方便は縛なりと謂ふ。謂く、菩薩は貪欲、瞋恚、邪見等の諸の煩悩に住してしかも衆の徳本を植う。これを慧無き方便は縛なりと名づく。何をか慧有る方便は解なりと謂ふ。謂く、諸の貪欲、瞋恚、邪見等の諸の煩悩を離れて、衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提に廻向す。これを慧有る方便は解なりと名づく。文殊師利、彼の有疾の菩薩は、まさにかくの如く諸法を観ずべし。又復、身は無常、苦、空、非我なると観ず。これを名づけて慧と為す。身に疾有りといえども、常に生死に在りて、一切を饒益し、厭倦せず。これを方便と名づく。又復、身を観ずるに、身は病を離れず、病は身を離れず、この病この身は、新に非ず、故に非ずとす。これを名づけて慧と為す。設ひ身に疾有れども、永滅せざる、これを方便と名づく。

文殊師利、有疾の菩薩は、まさに如是にその心を調伏して、その中に住せず、又復、不調伏心にも住すべからず。所以何となれば、もし不調伏心に住せば、これ愚人の法なり。もし不調伏心に住せば、これ声聞の法なり。この故に、菩薩はまさに調伏、不調伏の心に住すべからず。この二法を離るる、これ菩薩の行なり。生死に在りて汚行を為さず、涅槃に住して永く滅度せず。これ菩薩の行なり。凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ず、これ菩薩の行なり。垢行に非ず浄行に非ず、これ菩薩の行なり。魔行を過ぐといえども、衆魔を降伏することを現ず、これ菩薩の行なり。一切智を求めて時に非ざれば求むること無き、これ菩薩の行なり。諸法の不生なることを観ずと雖も、正位に入らざる、これ菩薩の行なり。十二縁起を観ずといえども、諸の邪見に入る、これ菩薩の行なり。一切の衆生を摂すといえども、愛著せざる、これ菩薩の行なり。遠離することを楽ふといえども、身心の盡くることに依らざる、これ菩薩の行なり。三界を行ずといへども、法性を壊せざる、これ菩薩の行なり。空を行ずといへども、衆の徳本を植う、これ菩薩の行なり。無相を行ずといへども衆生を度す、これ菩薩の行なり。無作を行ずといへども、受身を現ず、これ菩薩の行なり。無起を行ずといへども、一切の善行を起こす、これ菩薩の行なり。六波羅蜜を行ずといへども、あまねく衆生の心・心数の法を知る、これ菩薩の行なり。六通を行ずといへども、漏を盡くさず、これ菩薩の行なり。四無量心を行ずといへども、梵世に生ずることに貪著せず、これ菩薩の行なり。禅定、解脱、三昧を行ずといへども、禅に随ひて生ぜざる、これ菩薩の行なり。四念処を行ずといへども、永く身・受・心・法を離れず。これ菩薩の行なり。四正勤を行ずといへども、身心精進を捨てず、これ菩薩の行なり。四如意足を行ずといへども、自在神通を得、これ菩薩の行なり。五根を行ずといへども、衆生の諸根の利鈍を分別す、これ菩薩の行なり。五力を行すといへども、楽ひて仏の十力を求む、これ菩薩の行なり。七覚分を行ずといへども仏の智慧を分別す、これ菩薩の行なり。八聖道を行ずといへども、楽ひて無量の仏道を行ず、これ菩薩の行なり。止・観・助道の法を行ずといへども、畢竟じて寂滅に堕せず、これ菩薩の行なり。諸法の不生不滅を行ずといへども、相好を以って、その身を荘厳す、これ菩薩の行なり。声聞辟支仏の威儀を現ずといへども、仏法を捨てざる、これ菩薩の行なり。諸法の究竟の浄相に随ふといへども所應に随ひて、為にその身を現ず、これ菩薩の行なり。諸仏の国土の永寂如空なりと観ずといへども、而も種々の清浄の仏土を現ず、これ菩薩の行なり。仏道を得て法輪を転じ涅槃に入るといへども、菩薩の道を捨てず、これ菩薩の行なり。』と。

この語を説く時、文殊師利に将られたる大衆、その中の八千の天子、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。

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