福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論・・・その48

2023-09-17 | 諸経

修行には五門ある。その五門を通じて信心を完成させるのである。一は布施門。二は持戒門。三は忍辱門。四は精進門。五は止觀門。第一の布施門はどのようにして修行するのか?それはどんな人でも家に来て求める人がいればあらゆる財物を力に応じて与え、おのれの慳貪の心を捨ててその人をよろこばせること(財施)。またひとが苦難に逢い恐怖し危険が切迫しているのを見たら可能な範囲で無畏を与えること(無畏施)。さらに人が教えを乞うたら自らの理解の程度に応じて方法を考えて法を説くこと(法施)。これらは決して自己の利益や相手からの敬いを求めてはならない。ただ自利利他をめざし、その功徳を菩提(覚り)に向けよ。第二の持戒門はどのようにして修行するのか?それは、不殺・不盜・不婬・不兩舌・不惡口・不妄言・不綺語にして貪・嫉・欺詐・諂曲・瞋恚・邪見を遠離することである。出家の場合はさらに、煩悩を克服するために人の集まるところを避け、静寂なところに住み、少欲知足にして頭陀行等を実践し、どんな小さな罪も犯すことを懼れ、直ちに懺悔し、悔い改めるようにして如来が決められた禁戒を軽んじてはならない。譏ったり嫌ったりして衆生が妄に過をおかし罪を起こさないようにさせるべきである。第三、どのように忍辱門を修行すべきか?すなわち他人から悩まされた場合、それに耐えて決してその人に報復しようと思ってはいけない。常に利・衰・毀・譽・稱・譏・苦・樂等の世間的評価に堪えるべきである。第四、どのように精進門を修行すべきか?すなわち種々の善事に努めるにあたっては懈怠のこころを生ぜず、志をたてて決してひるんではならない。久遠の昔から自分は業によって心身の大苦を受け、すこしもよいことがないことを思うべきである。それゆえこれからは努めて自利利他行にはげみ速やかに諸々の苦から解脱できるように心がけるべきである。もし人が信心の修行に努めても前世以来の重罪・悪業の障りの為に魔・邪・諸鬼の惱亂ために悩乱せられ、或は世間の事務の為に種種牽纒せられ、或は病苦のために惱されたりするなど多くの障礙が起こるばいいもあろうが、その場合は當に勇猛精勤して晝夜六時に諸佛を禮拜し、誠心に懺悔・勸請・隨喜し菩提に迴向すべきである。常に努力して休まなければ諸の障を免れることを得て善根増長するからである。第五、どのように止観門を修行するのか?ここでいう止とは対象の相があらわれないようにすることである。奢摩他觀(しゃまた)という観想にしたがう。ここでいう觀とは因縁により生滅する相(心生滅相)を観ずるをいう。これは毘鉢舍那觀(びばしゃな)の修習に隨うということである。どのように隨うのか。此二義すなわち、奢摩他觀(しゃまた)毘鉢舍那觀(びばしゃな)は漸漸に修習して共に離れないようにすれば二つとも成就するのである。若し止を修せんとすれば、靜處に住し端坐正意しすべきである。氣息・形色・対象が空であるとか地水火風であるとかにも気を留めないでまた、見聞覺知にも気を留めてはならない。一切の思いを念に随って皆な除き、亦た想を除いていることをも忘れること。一切法は本來無相でり、刹那毎に生ぜず、刹那毎に滅することもないからである。亦た心の外のものに随って対象としてを心を働かせることがあるが、後でその心を以て心を除くとも考えないこと。心が若し散ったときは、即ち當に集中して正念にとどまらしめるべきである。是の正念というのは唯だ心のみがあり、外の現象は存在しないことをいう。そして復た此の心も亦た固有の存在ではなく一瞬一瞬に生滅し不可得なものと知るべきである。若し坐より起って動くときにもどうやって心を安定させるかを考え、それに応じて観察すべきである。こうして「止」について久習淳熟すれば心は安定するようになる。心が安定するようになれば徐々に眞如三昧に入ることができるようになる。すると深く煩惱を退治して信心が増長し速に不退の状態になる。唯だしかし、疑惑・不信・誹謗・重罪業障・我慢・懈怠のものは真如三昧に入れない。」


(修行に五門あり。能く此の信を成ず。云何五。一は施門。二は戒門。三は忍門。四は進門。五は止觀門。
㈠ 云何んが施門を修行するや。若し一切の求索者来るや、所有の財物を力に随って施與し、自ら慳貪を捨つるを以て彼をして歡喜せしめよ。若し厄難・恐怖・危逼を見れば、己の堪任に随って無畏を施與せよ。若し衆生の來って求法する者あらば、己の能く解するに随って方便して爲に説け。應に名利・恭敬を貪求すべからず。唯だ自利利他を念ずるのみにして菩提に迴向するが故に。
㈡ 云何んが戒門を修行するや。所謂く不殺・不盜・不婬・不兩舌・不惡口・不妄言・不綺語にして貪・嫉・欺詐・諂曲・瞋恚・邪見を遠離せよ。若し出家者ならば煩惱を折伏せんがための故に、亦應に憒閙(かいにょう)をも遠離して常に寂靜に處し、少欲
・知足・頭陀等の行を修習し、乃至小罪にも心に怖畏を生じ、慚愧改悔して如來の制し所の禁戒を輕んずることを得ざれ。當に譏嫌を護って衆生に妄に過罪を起こさしめざるべからざるが故に。
㈢ 云何忍門を修行するや。所謂く、應に他人の惱ますを忍びて心に報ゆることをおもわざれ。亦當に利・衰・毀・譽・稱・譏・苦・樂等の法を忍ぶべきが故に。
㈣ 云何が進門を修行するや。所謂く、諸の善事において心懈退せず、立志堅強にして怯弱を遠離せよ。當に過去久遠より已來、虚く一切身心の大苦を受けて利益あること無きを念ずべし。是故に應に諸功徳を勤修して自利利他し、速に衆苦を離るべし。復次に若し人信心を修行すと雖も、先世よりこのかた多くの重罪惡業障あるをもっての故に、魔・邪・諸鬼の惱亂ために悩乱せられ、或は世間の事務の為に種種牽纒せられ、或は病苦のために惱され、如是等の衆多の障礙あらん。是故に應當に勇猛精勤して晝夜六時に諸佛を禮拜し、誠心に懺悔・勸請・隨喜し菩提に迴向すべし。常に休廢せずんば、諸障を免れることを得て善根増長するが故に。
㈤云何が止觀門を修行するや。所言く止とは謂く一切の境界の相を止むるをいう。奢摩他觀に隨順する義なるが故に。所言く觀とは謂く因縁生滅相を分別するをいう。毘鉢舍那觀に隨順する義なるが故に。云何が隨順。此二義は漸漸に修習すれば相い捨離せずして雙に現前するを以ての故に。若し止を修せんとせば、靜處に住し端坐正意。氣息にも依らず形色にも依らず、空にも依らず、地水火風にも依らず、乃至見聞覺知にも依らざれ。一切諸想を念に随って皆な除き、亦た除想をも遣る。一切法は本來無相なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅せざればなり。亦た心外に随って境界を念じて後に心を以て心を除くことも得ざれ。心若し馳散せば、即ち當に攝來して正念に住せしむべし。是の正念とは唯心にして外の境界なきをいう。既ち復た此の心も亦た無自相にして念念不可得なればなり。若し坐より起って去來進止に施作する所あるも、一切時において常に方便を念じ隨順して觀察せよ。久習淳熟すれば其心は住することを得ん。心の住するを以ての故に漸漸に猛利して、隨順して眞如三昧に入ることを得る。深く煩惱を伏して信心増長し速に不退を成ず。唯だ疑惑・不信・誹謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く、如是等の人は入ること能わざる所なるがゆえなり。(修行には五門ありその五門を通じて信心をかんせいさせるのである。一は布施門。二は持戒門。三は忍辱門。四は精進門。五は止觀門。第一、布施門はどのようにして修行するのか?それはどんな人でも家に来て求める人がいればあらゆる財物を力に応じて与え、おのれの慳貪の心を捨ててその人をよろこばせること(財施)。またひとが苦難に逢い恐怖し危険が切迫しているのを見たら可能な範囲で無畏を与えよ(無畏施)。さらに人が教えを乞うたら自らの理解の程度に応じて方法を考えて法を説け(法施)。これらは決して自己の利益や相手からの恭敬を求めてはならない。ただ自利利他をめざし、その功徳を菩提(覚り)に向けよ。第二、どのようにして持戒門を修行するのか?それは、不殺・不盜・不婬・不兩舌・不惡口・不妄言・不綺語にして貪・嫉・欺詐・諂曲・瞋恚・邪見を遠離することである。出家の場合はさらに、煩悩を克服するために人の集まるところを避け、静寂なところに住み、少欲知足にして頭陀行等を実践し、どんな小さな罪も犯すことを懼れ、直ちに懺悔し、悔い改めて如来が決められた禁戒を軽んじてはならない。譏ったり嫌ったりして衆生が妄に過をおかし罪を起こさないようにさせるべきである。第三、どのように忍辱門を修行すべきか?すなわち他人から悩まされた場合、それに耐えて決してその人に報復しようと思ってはいけない。常に利・衰・毀・譽・稱・譏・苦・樂等の世間的評価に堪えるべきである。第四、どのように精進門を修行すべきか?すなわち種々の善事に努めるにあたっては懈のこころを生ぜず、志をたてて決してひるんではならない。久遠の昔から自分は業によって心身の大苦を受け、すこしも利益がないことを思うべきである。それゆえこれからは努めて自利利他行にはげみ速やかに諸々の苦から解脱できるように心がけるべきである。もし人が信心の修行に努めても前世以来の重罪・悪業の障りの為に魔・邪・諸鬼の惱亂ために悩乱せられ、或は世間の事務の為に種種牽纒せられ、或は病苦のために惱されたりするなど多くの障礙が起こるばいいもあろうが、その場合は當に勇猛精勤して晝夜六時に諸佛を禮拜し、誠心に懺悔・勸請・隨喜し菩提に迴向すべきである。常に努力して休まなければ諸の障を免れることを得て善根増長するから。第五、どのように止観門を修行するのか?ここでいう止とは対象の相があらわれないようにすることである。奢摩他觀(しゃまた)という観想にしたがう。ここでいう觀とは因縁により生滅する相(心生滅相)を観ずるをいう。これは毘鉢舍那觀(びばしゃな)の修習に隨うということである。どのように隨うのか。此二義すなわち、奢摩他觀(しゃまた)毘鉢舍那觀(びばしゃな)は漸漸に修習して捨れないようにせずして共に離れないようにすれば二つとも成就するのである。若し止を修せんとすれば、靜處に住し端坐正意しすべきである。氣息・形色・対象が空であるとか地水火風であるとかにも気を留めないでまた、見聞覺知にも気を留めてはならない。一切の思いを念に随って皆な除き、亦た想を除いていることをも忘れること。一切法は本來無相でり、刹那毎に生ぜず、刹那毎に滅することもないからである。亦た心の外のものに随って対象としてを心を働かせるが、後でその心を以て心を除くとも考えないこと。心が若し散ったときは、即ち當に集中して正念にとどまらしめるべきである。是の正念というのは唯だ心のみがあり、外の現象は存在しないことをいう。そして復た此の心も亦た固有の存在ではなく一瞬一瞬に生滅し不可得なものと知るべき。若し坐より起って去來進止するときにもどうやって心を安定させるかを考え、それに応じて観察すべきである。こうして「止」について久習淳熟すれば心は安定するようになる。心が安定するようになれば徐々に眞如三昧に入ることができるようになる。すると深く煩惱を退治して信心が増長し速に不退の状態になる。唯だしかし、疑惑・不信・誹謗・重罪業障・我慢・懈怠のものは真如三昧に入れない。)

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