福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんから谷保天満宮のお庭燎祭の模様の記録を頂きました

2018-11-14 | 講員の活動等ご紹介
谷保天満宮(東京・谷保)で、11月3日(土)夜に催された、お庭燎(おかがラビ)の模様を、記録してみました。この催しは、奇祭といわれるもので、毎年、この日に、行われる天神様の、お祭りで行われます。
漆黒の暗闇の中で、威勢よく燃え上がる、お庭燎は、さながら、炎の競宴宜しく、境内の大木高さを超えて、夜空を焦がしています。見る人によっては、炎の形象が、時時刻刻、変化するので、お不動さんに見えたり、大日如来さまに見えたり、神聖、神秘な不思議な、気配を感じさせます。もちろん、ただの焚火の王様のようとしか、感じられない人も、いるでしょう。しかし、この日、参詣に集まったのは、200人余り、誰もが、「火」が、醸し出す、非日常性の神秘に、こころを動されたことは、確かだと思います。その昔、江戸の時代の人たちが、感じた感覚と、今日、只今の私たちの感じた感覚は、ほとんど、同じ感覚を共有したのでないでしょうか。

この、お庭燎は、本来は、本社拝殿の前で、行われるようですが、現在は、消防法の制約もあり、広い境内の中で、行われています。粗朶やまきの山を、高さ、3メートルに積み上げ、同様のまきの山を、2
基作ります。午後6時、同天満宮の神官が、祝詞を挙げた後、点火されます。一大ペーエジェントの始まりです。実に、清澄な雰囲気です。
この日は、神殿では、点火の後、60~70人の、氏子さん達が、神主さんによって、神事の式典が行われていました、

「火」は、人間の本能的に持つ、大宇宙と人間の小宇宙を感じさせる、構成元素で、西洋でも、ギリシャのターレスも、人間の構成元素は、「火」は、重要な要素としてますし、弘法大師も、地水風「火」と重要な構成要素としています。「火」は、生き物にとっては、なくてはならない、重要な元素だったのです。お庭燎火の、激しく燃える芯の奥には、人間の、根源的な、生命の要素が、込められているようです。このため、本能的に、曳きつかれる、要素があるのでしょう。

この行事は、養和元年(1182)11月3日、天神島から、現在のところに、谷保天満宮が、遷座した時、取り壊したお寺の建築材料の残木を、おn御神前で、焼却したことから、始まったと言われています。今の世であったら、こうした、資材は、産業廃棄物として、簡単に、トラックで、積まれ、捨て去られてしまうのでしょうが、昔の人
は、神様が、お使いになったものと、大事にして、燃やしたことでしょう。敬虔の念があったのですね。

天神島というのは、菅原道真の子どもであった三郎道武が、道真と同様,配流され、谷保に、落ち着いたところです。この時、道武は、8歳の少年でした。このため、道武を保護育成したのが、常陸大掾上平太(津戸)貞盛という豪族でした。津戸貞盛は、栗原郡谷保(国立市谷保中平)一帯の、田圃を統括所有する豪族でした。が、多分に漏れず、広大な、田圃を割るようにして、多摩川が流れ、氾濫して、一面泥海に化した事もしばしば、だったそうです。天災地変、はその当時から、あったのです。その、泥海の中で、中洲のような土地ができ、これを。天神島と呼んだそうです。そして、津戸貞盛は、道武に頼み、道武の子ども、道英を養子として迎えたのです。この、菅原道英の裔孫が、津戸三郎菅原為守という人でした。

津戸為守は、道武が、自分で、刻んだ、亡き父、菅原道真の彫像を、毎日、欠かさず、礼拝している姿を見て、天神島に祠を建て、道真公の彫像を、奉祀することが、出来るようにしたのです。
道武が、亡くなったのは、延喜21年(921)ですが、その後は、子孫の手によって、菅公社は守りつずけられ、為守も、菅公の奉拝を怠らなかった。ある時、為守の夢の中に、菅公が現れてきて、鎮座の地を栗原郷谷保に転ぜよとのお告げがあったという。このため、為守は、氏子たちに、このことを告げ、道武卿が、配流されて、定住した、館に近いところに決められました。谷保八幡宮の発祥であるところです。簡単な社殿も造営しました。この時、使われた木材の、残木を焚いたのが、お庭燎祭りになったのでした。道武卿没後260年後です。

そして、忘れてならないのは、天満宮と合わせて、別当・安楽寺と社務6院を置いたことです。安楽寺は、九州・太宰府にある、安楽寺を模して、建てられたそうです。梅香山 松濤西院といい、天台寺院でした。統括には、為守が、あたりました。しかし、残念なことは、この別当・安楽寺は、歴史に、悪名高い、明治維新の神仏稀釈令によって、廃寺となり、現存していないのです。
さらに、私が、谷保八幡宮に、深い尊崇の念を抱かせるているのは、為守の、壮絶な、生き方です。

谷保天満宮の創始者である、津戸三郎為守は、18歳の時、源頼朝に仕え、各種の合戦では、数々の武勲を建て、建久6年(1195)2月、源頼朝が、奈良・東大寺の大仏開眼供養のため、上洛した時、供奉員の一員に加えられていました。そして、奈良に、滞在中、為守は、かねてから、崇敬していた法然上人の門下になり、念仏三昧の日々を過ごすようになりました。そして、往生念仏を果たすため、出家したのです。為守は、幾多の戦場と、血を血で洗う、戦場合戦で、半生をすごしたことに、痛烈な懺悔を行い、自分が犯した罪科を悔い改めたいと、願ったのです。法然上人は、為守の信仰を見て、「尊願」という法名を、贈りました。しかし、師である法然上人は、建永2年(1207)一月、亡くなりました。行年80歳。為守は、この世の無常を痛感させられるる、日々を送ります。ある日、為守は、自分の生きてきた生涯を顧みて、もう、これ以上生きることは、穢土に住まいをつずけることは、無益である。釈尊も、おん年80歳にして、入寂され、法然上人も、80歳で、亡くなった。自分も、80を過ぎ、もうこの世の未練は、ない。と、ある日、多勢の僧衆を招いて、如法念仏の会を行い、11月18日満願の夜、念仏道場の真ん中に正座して、声高々に、「光明遍照十方世界」と唱えながら、自腹を掻き切って、自害を図ったと
いいます。為守は、自腹を掻き切った後、泰然自若として、自分の手で、五臓六腑を取り出したといいます。如法念仏結願の日に往生するとは、有り難いと、感謝の祈りを捧げたといいます。それから7日間絶命せず、12月を迎えても、臨終はなく、開けて、承久2年(1220)1月15日、法然上人から賜った、袈裟を掛け、念誦を手に、西方浄土にむかって、端座合掌師ながら、息絶えたという、凄惨、壮烈な死を遂げたといいます。

この、為守の生きざまを思うとき、私も、これまで、80を超える人生を送ってきて、「いったい何をして、生きてきたのだろうか」と、痛烈な後悔と、無念懺悔に、襲われます。確かに、これから先の人生は、現在の世の中では、生きるに値する事柄は、ないのではないいか。
人生百歳時代の到来と騒ぐ一方、少子高齢化を不安視する風潮など、世相は、乱れに、乱れている感がします。為守のような、潔い勇気があったらと思い、いつも、谷保天満宮を、訪れ、為守の慰霊を感じながら、せめて、自分の、小さな、信仰を、成就させたいと、わが身を、奮い立たせているのですが。
最後に、本稿は、執筆にあたって、谷保天満宮で発行した、「谷保天満宮物語」(平成17年発行)で、郷土史家・原田重久先生著の9版を参照させていただきました。感謝です
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四国八十八所の霊験・・・そ... | トップ | 今日は一粒万倍日です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

講員の活動等ご紹介」カテゴリの最新記事